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読書感想文 「大衆の反逆」

『大衆の反逆』発行 1930年
ホセ・オルテガ・イ・ガセット(スペインの哲学者・思想家)

概要
第一次世界大戦(1914-1918)の終結から約10年後である1930年発表された作品。
敗戦国、戦勝国を問わず戦後の打撃を回復しようとする最中、工業化が進んだ事による都心化や労働者階級の急激な増加に加え、民衆が力を持ち始めた事による不安定な政治状態(民主主義)など、当時の国際社会の諸問題と向き合いながら、【大衆】という存在について考察している作品です。
現代にも通じる部分があると思い、この作品を選びました。
(引用文は分かりやすく中略や多少の書き換えを行っております)
 
まずは【大衆】という存在についてオルテガの定義をまとめます。 


①    自己中心的: 大衆人は自己の欲望や関心を最優先に考え、他者や社会全体の利益を顧みない傾向がある。
②    知識や教養の欠如: 大衆人は深い思考や批判的な判断力に欠け、表面的な知識や流行に流されやすい。
③    受動的で集団に従属: 大衆人は自らの意見や価値観を持たず、集団の意見に従う傾向が強い。
④    文化や伝統への無関心: 大衆人は過去の文化や伝統を軽視し、現在の快楽や利便性を重視する。



これらの傾向を持つ人物達をオルテガは【大衆人】と定義しています。
特に【自己中心的さ】に関しては、何度も似た記述を示しており、人々の【強欲さ】【他者への無関心さ】についてオルテガの強い警戒心が感じ取られます。
 


 ・大衆は、他者の犠牲や努力の上に成り立つ社会的な利益や権利を享受しつつも、そのことに対する感謝や責任感を持たず、まるでそれが当然のように振る舞う。
・甘やかされた子どものように、大衆は何も努力せずに、他者から与えられるものを当たり前と見なし、自分の欲求が満たされないときには不満を抱く。
・ こうした態度が社会全体に蔓延することで、社会秩序が崩れ、文化的・道徳的な低下が進む

『大衆の反逆』ホセ・オルテガ・イ・ガセット(以下、太文字の文は引用になります)



人は欲求が満たされると満足するのではなく、さらなる大きな欲求を持つ事になります。
そして要求が満たされる事が当然になると、要求が満たされない状況に耐えられなくなってしまいます。

「足るを知る」という言葉があるように、意識を持たなければ、慢心に繋がり、慢心は暴利を招き、その人物の人間性を著しく堕落させ、思考能力を奪ってしまいます。


・われわれはついまどわされて、あり余るほど豊かな世界に生まれた生の方が、まさに欠乏との戦いそのものであるような生よりも、いっそう生であり優れていると考えがちである。しかし事実はそうではない


特に大きな不幸がある訳でも無くいつでも要求に応えて貰える整った文明や環境、人間関係に囲まれる事は幸福なものです。
しかしそれが当たり前の事になると、むしろ人間にとっては人間性を堕落させる【毒】になってしまいます。  
あまりに満たされた状況になると、人々は【満たされている】事を忘れ、【心】が動かなくなっていき、それは【忘恩】に繋がっていきます。


・忘恩は文明社会において最も万栄する悪徳の一つである
・大衆は過去の恩恵や人々の努力を忘れ、自ら享受する利益を当然のものとみなす。
これにより、感謝の念を欠いた大衆は自己中心的な態度を取りやすくなる


忘恩とは文字通り、恩を忘れる事ですが、オルデガの意図する所は少し意味合いが異なり、大衆と呼ばれる人々は【恩を忘れる】のではなく【恩恵だとは一切感じてない】というのが私の見解です。

⚠【恩恵】と言う単語はあまり聞き馴染みが無いと思われます。
現代で分かりやすく言えば【幸福】でしょうか。

【幸福】という言葉を聞いて大多数が頭に浮かべるのは【肉親や恋人や友人など特定の存在と共に居る事】であったり、【自身のやりたい事をやれている事】だとか【誰かからの金銭などの譲渡】であったり、つまりは安心感や金銭を与えてくれる存在や環境を【幸福】と呼び、それを与えてくれる存在や人工的環境を【恩恵】とする印象を受けますが、オルテガの価値観とは異なります。

オルテガの言う【恩恵】は現代までの文明や知識を構築してくれた過去の人々、そしてその過去に犠牲になった人々、周りに生きる第三者の存在、この世界の自然現象など自身の存在を支える全てへの【恩】です。
(仰々しく常に感謝をしろ、という話ではなく、【自覚が有るか無いか】の話だと思われます) 

大昔ならば我々は【疫病】【飢餓】【死】に悩まされ、一昔前なら独裁国家による【厳格な統制】の元に窮屈な生活を強いられてました。

しかし現在、先進国ならば、一部の人々を除いて、ほとんどの人は独裁的な権力に制圧されたり、飢餓、病等の死に脅える事の無いまま、贅沢さえ言わなければ自由に過ごす事が出来ます。(実際、死はいつでも身近な物ですが、意識する時間はほとんどありません)

死を恐れる事が無くなった人々は、生きる手段でしか無かった【娯楽】(金銭そのものを含む)や家族、学校、職場など身近な人間との共同体の関係性や立場に集中する【承認欲求】を自身の生命そのものよりも重要視する事になりました。

物理的には存在しない内側の衝動-【欲望】そのものが、主軸になってしまえば、逃れられる手段も、抵抗する方法もありません。


・大衆の人間は、特にその存在について深く考えることなく、自分の生を無意識に受け入れる。彼らは自分の人生を主体的に形作ろうとはせず、ただ周囲に流されるままに生きる。


自分の生に無頓着で、軽い命の感覚は、大衆にとって自身の【命】も他者の【命】も、欲望を叶える為の道具でしかないからこそ起こる事だと考えられます。(現代人が心身の不調を繰り返すのはこの為でしょう)
そして個々の欲望はあまりにも粗末で、自身で生みだした物という訳でもなく、習俗的な価値観に流された結果に過ぎない。


・大衆の人間は、ただ外部の環境が自分にとって快適であることだけを望み、それが幸福であると誤解する。しかし、真の幸福は外的な条件によるものではなく、自己の内面から湧き上がるものである。


外部の環境がいくら整っていようとも、欲を抑えられなければそれすらも足りないと感じますし、いくらでも綻びは生じます。
内面から湧き上がる幸福は外側の環境を選びません。
ですが個人的な努力と、個人的な時間と、絶え間ない静けさが必要となり、人によってはかなりの苦痛を伴います。
故に多くの人は目に見える外部の環境の幸福を選ぶ傾向があります。

つまりは大衆化している間-他者と過ごしたり、消費行動をしたり、社会的に必要とされてると感じたり、物質的で消費行動な快楽の享受に幸福を感じる。

しかし外部環境に【幸福】を求めると、【条件】がどんどん狭くなり、【量】が足りなくなっていくのです。


こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源から真正さを奪いとり腐敗させてしまう


普段生命の実感を娯楽で濁して、命の感覚が薄いので、身近な死や病気、事故、事件という不幸とされる現象を分かりやすい形で受けると、突然自身が生物であると思い出し、錯乱状態に陥るのも大衆の特徴です。

⚠大規模な災害、事件、事故の情報などのデマ情報に流されやすく、暴走して差別、憎悪犯罪(特定の人種、性別などへの加害を目的とした犯罪行為)や過度な消費行動に走るのはその為だと思われます。

なので【他者の命】にも実のところ関心は無い。
(これは特定の関係性の人物の命なら大切だ、という話では無く、無条件に他者の命-命という現象を尊重出来るかの点)

近しい人間を除き、他者の【不幸】や【死】に人々は興味を示さない傾向があるように思います。
比較的平穏な時代に生きる事で、身近な【不幸】や【死】をほとんど知らないからこそ、感覚を理解出来ず想像出来ない。

生命の感覚が薄く、頭の中に自身の欲望しか無いので【喜怒哀楽】という感情が極端に表れやすくなっており、同時に持続しなくなっている。

感情の起伏が激しい訳ですから、精神的にはかなり負担であり、そのストレスを埋める為に快楽でさらに埋めようとしてしまうのではないでしょうか。


・大衆は、その存在の目的を快楽の追求に置き、責任や義務を軽んじる。彼らは自らの欲望を即座に満たすことに集中し、社会の長期的な利益や文化的価値を考慮しない。

・快楽を追い求めることは、文化的退廃を招き、個人を浅薄にする。快楽主義的な大衆は、深い思索や精神的な成長を軽視し、ただ瞬間の満足にのみ生きる。


オルテガの言う【責任】や【義務】、【社会の長期的利益】とは個人の金銭や名声、それを得るための労働や活動の事ではありません
社会全体の長期的な利益とは、【個人的利益】や一部の共同体のみの為の物では無く、社会全体の維持と向上の事です。(厳密に言うなればそれが出来るほどの精神性を保つ責任、知性を兼ね備える努力義務の事だと思われます)

なおかつ【社会】とは【構造】の事であり、社会に台頭する【多数派】を意識しろという事ではありません。


大衆は数の力に依存し、自らを正当化する。多数派であることが、彼らにとって正義の基準となる。

多数派は、個々の意見や価値観を圧倒し、社会全体を画一的な方向に導く。多様性が失われ、文化的な創造性が停滞する。

大衆が社会を支配する時代において、多数派は常に自らが正しいと信じ込み、異なる意見や価値観を排除しようとする。その結果、社会は硬直化し、進歩が阻害される。   


多数派である事をとにかく好む大衆は、少数派の存在や意見には目を向けません。
称賛される者の言葉がいつでも正しく、その誰かの意見に流される事を好みます。
しかしその結果起こった不利益に関しては、選んだ責任を受け止めず、他者に責任を押付けます。


・娯楽の普及は大衆の生活における重要な要素である。
娯楽は大衆が日常の単調さや厳しさから逃れる手段となるが、それと同時に思考や内省の機会を奪うことにもなる。
・大衆は娯楽に没頭する事で自らの存在意義や社会的責任について考える事を避けようとする。


【存在意義】と【社会的責任】に関して、先ほどと同じく説明しますと、大衆にとっての【存在意義】とは【肉親などの近い関係性を含めた無数の人々に存在を求めてもらえるか愛されるか】=【役に立つか】【存在を望まれるか】であり、【社会的責任】については【労働】や【育児】などの金銭を得る活動や生殖行為のことだと考えている印象を受けます。ですが、それはオルテガの示す所ではありません。

オルテガが伝えたい事は【存在意義】とは【社会的責任】とは、と。そのものに関して考える事がそもそも無い。という事です、

【思考】も【内省】も捉え方が異なり
大衆にとって思考とは自身の【欲望】を叶える為の【計算(金銭に限らず)】であり、【内省】とはその【計算】の過程か結果に不具合が生じた時の【修正行為】であるように思えます。 
自身の欲望で動き、他者に欲望を叶えさせようとする者達は、根本的な部分で自己の欲望しか無い為、堂々巡りになってしまう。 

自身の金銭、自身と近しい人間関係、仕事、自己顕示欲、などから分け隔てて、自身そのものや他者の存在、全てについて思考することをオルテガは【思考】や【内省】としています(分かりやすく言えばですが)。


・彼らは世界に、あり余るほど豊かな手段のみを見て、その背後にある苦悩は見ない。驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。
そうした薬品や道具を発明することのむずかしさ、それらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどない


薬品や道具というのは例えであり、薬の生成法であるとか、器具の構造を知れという意味ではありません。
現在の便利な生活に慣れすぎて、なぜその便利な生活が成り立っているか少しも考えないし、気づく事も無く、それを失った場合の生き方も分からないという指摘だと思われます。


①現代の大衆は、世界に争いが存在しないかのように、享楽だけを追い求める。

②社会的なもろもろのことが立派に秩序づけられている時は、大衆は自分からは行動に出ることはしない。それが大衆の使命なのである。大衆は、指導され、影響され、代表され、組織され、さらには大衆であることを留めるためというか、少なくとも止めることにあこがれるべくこの世に生まれ出てきたのである。


①文明が発展していて、世界的には犯罪率も少なく、平和と言われた時代に生まれた人々は、争いを知りません。
となると、遠くの国で【戦争】が起こっていてもどんな事が起きているか【想像】する事は出来ませんし、起きている事を聞いたとしてもあまりに残酷過ぎて実感も湧かず、結果無関心を貫くしかありません。

②大衆という共同体に組み込まれている安心感によって、思考する必要も、何かに立ち向かう必要も無く、むしろ大衆から外れてしまう恐れもある為、最悪の事態になるまで政治的な運動や社会的活動する事はほとんどありません。自ら動かない事を選んだのにも関わらず、政治や社会に不満を募らせるのは大衆の特徴です。


・未来社会においては大衆が自らの欲望を優先し、公共の利益や長期的な視点が失われることで、文明そのものが危機に瀕する可能性がある。


個人的な欲望や特定の共同体の事のみに視点や意識を向けると、社会や国の将来性に目を向ける事が出来なくなり、社会全体の衰退や、国家の暴走や怠慢を招き兼ねません。

オルテガの予見はこの著作が発表された約3年後、大衆によって選ばれたナチス・ドイツという政権の確立によって早くも正確であったことが証明されています。
(ナチス・ドイツについて→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)

そして、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により、第二次世界大戦が勃発。
オルテガの暮らすヨーロッパ諸国もまた、ナチスによる侵略と支配を受け、大虐殺に加担する事になります。

私達の世代は戦争と聞くとあまり実感が湧きませんが、つまり【大衆の無責任と無思考は予想もしない最悪な事態に繋がりかねない】という事をオルテガは言いたい訳です。


・彼らは、自己満足と瞬間的な快楽に没頭し、長期的な視野や他者への配慮を欠いている。これにより、文化や社会の質が低下し、真に重要な問題が無視されるようになっている 

・彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていない


誰よりも安楽な生活を望み、その中でしか生きられない筈の大衆が、その安楽な生活がなぜ成り立っているのか、凄惨で原始的な過去から現代をどう構築していったのか、どうやってこれから持続し、如何に向上させていくのかを考えることが無い。

多くの人は愛する者が惨劇の対象に陥った時、まるでその惨劇という現象を初めて遭遇した様に、悲哀し、錯乱し、激昂します。
関わりの無い第三者が不幸で苦しんでいる間に、何も手を差し伸べ無かったのに、自身や近しい存在が対象になると他者に助けを求めても遅い訳です。

大衆は自身の欲望を叶える事には夢中になりますが、欲望の対象では無い他者へ関心を向ける事はほとんどありません。
まるで自身と自身の関係者以外だけの世界のように振る舞います。
そんな事は有り得ないものの、かなりの痛手を受けるまで本人達はその事には気付けません。  


・一般大衆はパンを求めるのだが、なんと、そのやり方はパン屋を破壊するのがつねである。



この文はとても分かりづらいと思いますので、私なりの解釈を書いてみます。
外部からの幸福のみを追い求め、命や心、第三者を尊重する精神を失えば、長期的に見た場合、その環境を土台から失ってしまう危険性を孕んでいる。

言い換えるのならば
【大衆はパン(【自由】や【幸福】)を求めるが、結果的にその【自由】や【幸福】の土台であるパン屋(社会全体や他者、自身の命、国全体)を根本から破壊してしまう事になる】という事だと思います。


・世界には、あらゆる瞬間に、したがって現時点においても、無数のことが起こりつつあるというのがまごうことなき真実である

・現実のすべてを直接に把握することが不可能だからこそ、われわれとしては、自分なりの現実を構想し、物事がある一定の方式に従っていると想定する以外に途がないのである。
・こうすることにより、われわれは一つの図式、つまり、一つの概念、あるいは諸概念の網を作りあげることができる。そして、ちょうど方眼紙をもってするように、その図式をもって真の現実を眺めるならば、その時、そしてその時にのみ、現況の近似的なヴィジョンを得ることができるのである。


世界と向き合った時、人はどうしても世界そのものではなく、快楽性のみに注目し(又は自身にとっての利益があるかどうか)、不幸な出来事や不幸な目に遭っている人達から目を逸らします。
オルテガは決して偽善としてではなく、不幸とされる現象も、幸福とされる現象も、世界で起こりうる無数の現象として平等に目を向け重ね合わせる事により、世界をさらに深く理解出来ると考えている訳です。  
世界を深く理解する事で、人と人は本来の意味で分かり合える様になり、外部からの物質的な幸福ではなく、条件を問わない長期的な内面からの幸福も得る環境を手に入れる事が出来る。

故に、オルテガは楽しい事ばかりではなく、そして自身の短期的な利益だけでもなく、それらを求めるからこそ、世界という現象に、他者という存在に真っ向から向き合うべきであるという主張を持っているのだと思います。

・まとめ

オルテガの言うように【社会】に目を向け、思考する事は重要ですが、豊かな時代に慣れ親しんだ世代である我々としてはかなり苦労します。

オルテガも決してどんな娯楽も楽しむなという【禁欲】を押し付けようとしている訳ではなく、過度な欲に身を委ねてしまうと、自分や自分の大切な人達が思いもしない不幸に見舞われる可能性がある、という事だと思います。

行動する事にも、行動しなかった事にも、責任が伴い、その結果は必ず訪れます。
それがいつ、どこで、自身に、あるいは自身の大切な人に、それとも人生そのものに、なのかは誰にも分かりません。
言えることはその場合、思いもよらぬ時に思いもよらぬ形で返ってくるという事です。

本当にそれでも構わないのか、一度駆り立てられている衝動から離れて、考える機会が少しはあってもいいと思います。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


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