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人と人との関係にある「壁」を関係を深める「触媒」に変える ー 「特別視」から「揺れ動く関係」をつくる
【図書紹介】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているか』光文社新書、2015年。
本書は、見えない人の世界を「見る」ための方法として、「情報」ではなく「意味」に注目している。見えないからこその、世界のとらえ方、体の使い方があるというのだ。
たとえば、見る人にとって富士山とは「八の字の末広がり」であり、「上が欠けた三角形」としてイメージしているが、見えない人にとって富士山は、「上がちょっと欠けた円すい形」をしている。月は、見えない人にとっては、ボールのような球体だが、見える人にとっては「まんまる」で「盆のような」月、つまり厚みのない円形をイメージしている。
あるいは、見える人は、見ようとする限り、必ず見えない場所が生まれてしまう。ところが、見えない人には「死角」がない。見えない人は、物事のあり方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく「諸部分の関係が客観的にとりなっているか」によって把握しようとする。この客観性こそ、見えない人特有の三次元的な理解を可能にしているという。
加えて、見えている人にとっては、「正面」という言い方に価値の序列があらわれているように、空間や面には価値のヒエラルキーがある。先天的に見えない人の場合は、こうした表/裏にヒエラルキーをつける感覚がない。全ての面を対等に「見て」いる。ある全盲の子どもが壺のようなものを作り、その壺の内側に細かい細工を施し始めたという。つまり、その子にとっては壺の「内」と「外」は等価であり、細工を隠したわけではなく、ただ 壷の「表面」に細工を施しただけなのである。
見えない人が、どのように空間や空間内にある立体物を理解しているか。決定的なのは、視点がないことであり、視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて、土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに、球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく、全て等価に「見る」ことができるのである。
見えない人の「見方」に迫り、見えない人の感覚の使い方を体感していくと、どうも「見る」ということについて私たちの理解の方が、ずいぶんと狭く、柔軟性に欠けたものだ、ということに気づかされる。そのさい、違いを認めることと、特別視することは異なっている点に注意が必要だ。一つには、「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなすさげすみの目線がある。「すごい」は単なる「すごい」ではなくて、実は「見えないのにすごい」ということなのである。「見えない人は見える人にできることができないはずだ」と考えていることを、見えない人は感じとっていることを自覚する必要がある。二つには、見えない人のイメージを固定化してしまうことである。私たちはつい「見えない人」とひとくくりにしてしまいがちだが、実はその生き方、感覚の使い方は多様なのである。「見えない人は聴覚や触覚がすぐれている」という特別視は、この多様性を覆い隠してしまうことになりかねないというのだ。
同じ「歩く」でも、見える人と見えない人では異なる運動をしている。 見えない人の足は「歩く」と同時に「さぐる」仕事も行っている。見えないという部分的な特徴か、その体全体の使い方を全く別のものに変える。異なる民族の人がコミュニケーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、人と人と理解しあうために、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくる。 多様な身体を記述し、そこに生じる問題に寄り添う。そうした視点が求められている。さらに、健常者が見えない人の価値観を一方的に決めつけるのではなくて、「見えないこと」が触媒となるような、そういうアイデアに満ちた社会を目指す必要がある。
本書が紹介しているのは、ソーシャル・ビューと呼ぶ美術鑑賞の方法である。一グループの人数は5、6名。各グループに必ず一人は見えない人が入るようになっている。簡単な自己紹介と障害の程度を確認したあと、グループごとに移動して、指定の作品を見て回る。一作品にかける時間は20分程度である。そして、作品の前にみんなで立ち、その作品について語り合いながら鑑賞するのである。
ソーシャル・ビューは、見える人による解説ではなく、 見える人は、見えているものと見えていないものを言葉にしていく。見えているものとは、絵画の大きさや色、モチーフなど客観的な情報であり、見えていないものは、その人にしか分からない、思ったこと、印象、思い出した経験など、主観的な意味である。この鑑賞のおもしろさは、意味の部分を共有することにある。参加者が5、6名になれば、みんな迷いながら、ときには正反対の意見がぶつかりあったりする。ああでもない、こうでもない、と意見を出し合いながら、共同作業の中で、ある作品の解釈らしきものをみんなで手探りで探し求めていく。ソーシャル・ビューの新しさは、このゴールにたどり着くまでのプロセスを共有する点にある。いったいどんな意味に、どんな解釈に到達することができるのか、解釈に正解はない。ソーシャル・ビューは、「目指す」のではなく、「探し求める」ライブ感に満ちている。ソーシャル・ビューは、ある作品が作りとしてどうなっているかを知識として得ることではなく、その作品がどんな作品であるかという解釈に至るまでのプロセス、経験を共有することにある。
見えない人は、自分の前にある作品がどんな作品なのかをイメージしながら、見える人の言葉を聞いている。見えない人は、断片的で暫定的なパーツを仮留めしながら、頭の中に作品を作り上げていく。しかし、見える人が作品を見ずに、ソーシャル・ビューのワークショップで参加者が実際に語った音声を、作品を隠した状態で聞いても、言葉をつなげることができないし、仮につなげることができても、全体としてどんな印象になるのかを想像することができない。見える人は視覚が全体像を与えてくれることに慣れてしまっていて、推理しながら見ることに慣れていないのである。断片をつなぎあわせて全体を演繹する習慣は、実際には、ある部分についてより解像度を上げた説明が加わったり、時間的な変化についての言及が追加されたりするなかで、新しく入ってきた情報に合わせて、頭の中で理解している全体のイメージを柔軟に変えることができなくてはならない。見えない人は、入ってきた情報に応じて、イメージを変幻自在にアップデートできるのである。見える人が頭の中のイメージに固執しがちなのとは対照的である。
ソーシャル・ビューもまた、直したり壊したりしながら、作品を頭の中に作り上げていくプロセスであり、鑑賞するとは、自分で作品を作り直すことなのである。重要なのは、ひとつの作品から様々な解釈が生まれる、というその多様性を確認することではなく、 他の人の言葉を聞いたうえで絵を見ると、本当にそのように見えてくる、物理的には同じものでも、見方によって、本当に全く別のものに見えてくる、言葉を介して、他人の見方を自分のものにすることができる、といった「他人の目で物を見る」経験である。「イメージの変幻」という見えない人の得意分野を、ここでは見える人が体感している。見える人の見方が見えない人の見方に接近していくのである。
ソーシャル・ビューにおいて、見える人が自分の見方を言葉にする理由は、とりもなおさずそこに見えない人がいるからである。しかし、見える人同士だったら「この青、なんかグッとくるよね」で評されたとしても、それでは、見えない人には通じない。多少がんばって、自分なりの解釈を言語化してみることが求められる。「空というよりは海の青で、・・・・どんより曇った日の波・・・・水面というよりは少し潜った感じ」見えない人がそこにいるから、「なんとなく分かった気になる」 ことが許されないのである。この抵抗感を越えて言葉にしてみると、自分の見方を明確にできるし、他人の見方で見るおもしろさも開けてくる。無言の鑑賞とは異なる、より創造的な鑑賞体験の可能性があらわれる。
ソーシャル・ビューでは、見えないという障害が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人との関係を深めたりする「触媒」になっている。見ることを基準に考えてしまうと、見えないことはネガティブな「壁」にしかならない。でも、見えないという特徴をみんなで引き受ければ、それは人びとを結びつけ、生産的な活動を促すポジティブな要素になる。重要なのは、障害が触媒として、人びとの関係を変えることである。「特別視」ではなく「対等な関係」ですらなく「揺れ動く関係」。ソーシャル・ビューが単なる意見交換ではなく、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつする共同作業であるからこそ、お互いの違いが生きてくるのである。障害が「見るとは何か」を問い直し、その気づきが人びとの関係を揺り動かしていく。健常者が障害者をサポートするという福祉的な視点とは異なる関係のあり方が、本書では示されているのである。
長くなりました。