自分一人ではできないことに、みんなでチャレンジできる
6年生の子どもが学習支援に来るなり、机につっぷし、固まった。昨日は、学習支援だった。彼は、2回目の参加である。しばらく、そのままにした後、「すぐ学習をして休む?休んでから学習をする?どっちかよくわからん。すぐする?」と聴くと、首をふった。「しばらく」の間、私は「どうしちゃったのかな」と頭を巡らせ、自分の身体をひろげ、彼にふれようとする。実際に触るのではなく、声に触れようとするのだ。
学習支援そのものの拒否ではなく、試しの行動だと思った。「気が済むまで、無視はせずに、ほっておいてほしい」と、彼の身体ことばを読む。難しい注文だなと思った。学習支援の1回目に、お姉ちゃん二人には、「何のために学習支援に来たのか」、「自分がどうなりたいのか」を聴くことができたが、彼は聞き取れずじまいだった。しかたなく、連れてこられた感だけは伝わっていた。子どもの意見は、自らことばにできなくても聴き取られる権利がある。
Tシャツを頭までかぶせて寝始めた。でも、気持ちよさそうに寝ている。なんだ。問われない、詰められない、迫られない関係を求めているだけか。学習に向き始めるタイミングを見逃さなければ、だいじょうぶに思えた。前回、「できないこと」を彼に突き付けてしまったことへの異議申し立てなのだと考える。私がどう読み取ったのかと言うと、身体から発せられている声を聴きとろうとしたとしか言いようがない。前回と同じ席に自分から座ったことも、サインだと受け取っていたのかもしれない。前回は、彼の前に座って、別の子どもも見ていたのだが、今回は、別の子どもの前に座って、彼も含めて3人をみることにする。
1時間後、自ら起き上がって、お茶を飲んだ。彼の身体がひらいたので、「するか」と声をかけ、プリントを出すと、赤のボールペンで書き始めた。答え合わせは黒でするのかなと思っていたが、答え合わせも赤だった。できることを組み合わせ、できないことにもチャレンジしようとする志向性の度合いを彼から読みとりながら、学習内容の量や範囲を微調整しながらプリントを与える。きちんと最後までやりとげた。学校や自分が置かれた境遇について、話しを聴くときが来るのかもしれないとも思えた。
新しくつくりたい学校は、子どもが拒否する身体を通して意見を表明するのではなく、自分のことばでうまく表現できなくても聴き取られる関係がある場にしたい。しかも、学習支援では取り組みにくいのだが、自分ができるかできないかが問われるのではなく、自分一人ではできないことに、みんなでチャレンジできる学校である。
大学院の教育実習が始まり、多くの教室を見せていただく機会がある。多くの教室では、自己紹介が貼ってある。高学年でも、好きなことに加えて、がんばりたいことが書かれているが、漢字テストで100点を取りたいとか、毎日5回は手を挙げたいとか、自分ができないことでできるようになりたいことが書いてある。新しくつくる学校では、子どもたちには、自分一人で「できるようになりたい」ことも聴くのだが、「自分一人でできないことで実現したいこと」や「まだ形はないのだが、こういう環境や関係を実現したい」など、学校づくりや社会への参画への要求を子どものことばで聴いてみたい。