見出し画像

感情の器

 私は、昨日から京都にいる。妻は、東京にいる。夫婦で、出張が重なってしまった。息子は、じいじ・ばあばのところにお泊りだ。幼稚園のお泊り会は中止だったので、初めて両親と離れて過ごすことになる。息子をじいじ・ばあばのところに送って宮崎空港に向かうとき、ふと、名前も知らないのだが、ある父親のことを思い出した。

 10年ほど前、イオンで造形工作教室を月に1回ほどしていたとき、受付に並んでいた3歳くらいの女の子が、突然、吐いた。そのとき、そばにいた父親がとっさに汚物を手のひらで受け止めた。こちらが慌てて用意した袋に汚物を入れた後、その父親は何事もなかったように、子どもを連れて、子どもの顔を洗いに行ったという光景を思い出したのだ。親の器の大きさを感じた一幕である。

 難民とか子どもとかだと情熱的な共感が生まれるのに、人を殺してしまった元テロリストの大人だと、共感は寄せられない。テロ組織から降参した人のケアや社会復帰を仕事にしている永井陽右さんがつくられた本(永井陽右『共感という病』かんき出版、2021年)を機内で読んでいると、内田樹さんが、「共感」ではなく、「つい手を差し伸べてしまう」惻隠の情が大切なのではないかという指摘をしていた。

 惻隠の情とは、たとえば、幼い子どもがよろよろと歩いていて井戸に落っこちそうになったとき、思わず手を伸ばして助けてしまうことである。この子を助けたら後から親に感謝されるだろうとか、助けなかったら周りの人からひどいと罵られるかもしれないとか、そういう計算をするより先に思わず手が出てしまっていたというのが、惻隠である。何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。功利的な計算ではない、作為のない身体である。頭で考える前に、自分の感情に素直になる行為である。

 内田さんは、惻隠の情が発動するのには、二つの条件があるとも指摘している。自分から見て弱者であることと、自分の力の範囲で救うことができると思えることである。相手が自分より強者であったり、とても自分の力では救えないような場合には、「思わず手が出る」ことは起きない。

 ただ、たとえば、人の本質を見抜く人だと、どれほどごつい外見で、攻撃的な人間が来ても、その人の心の中に「ひ弱な赤ちゃん」がいることが見えてしまう。だから、その「ひ弱な赤ちゃん」が怯えていたら、つい手を差し伸べてしまう。目の前にいる人の傷つきやすさや壊れやすさが見えるというのは、感情の器が大きさによるものではないかという。感情の器が大きい人が、すっと手を差し伸べる時の心情は、いわゆる「共感」とは違うのではないかと指摘するのだ。

 感情の器は、自分の身内にしか持てない状態から、次第に範囲をひろげていくことはできる。人としての生き方を学ぶには、自分より器の大きい人のそばにいて親しみ、感化されるしかない。妻は、定期的に、追っかけというのか、決まった人に学びに行く。内容だけなら、オンラインでも十分だ。彼女にとって教師として学び続けることは、息遣いや教師としての生活のあり様を身体で感じに行く稽古なのではないか。内田さんにも、合気道と哲学者の師匠がいる。教師に必要なのも、講師ではなく、師匠なのかもしれない。 

いいなと思ったら応援しよう!