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学校「生活」を問い直すために
日々読書-教育実践に深く測りあえるために
佐々木宏・鳥山まどか編著『シリーズ子どもの貧困③ 教える・学ぶ 教育に何ができるか』明石書店、2019年。
子どもの貧困対策における学校の役割を、単純な学力向上政策ではなく、学校生活の側面を強調している。学校の意義を学力向上だけにとどめないだけでなく、「学校生活」自体を問い直すことも同時に必要であるというのである。
教育による階層上昇を貧困解決の主要な手段とすることは、一見すると弱者に寄り添っているように見えて、実際には“やる気があるとみなした”対象者を選別してすくいとって「成功した私たち」と同じ生き方を求める行為でもある。教育支援の取捨選択が当事者に委ねられ、「拒否できる自由」が確保されていることが肝要であると指摘する。(79 頁)
社会的に恵まれた層は、大学進学機会が平等であると認識しがちであり、逆に恵まれていない層は不平等の存在を意識している。ところが、恵まれていない層は、その状況を打破したいというより、事実を受け入れてしまっており、学校の勉強の意義を相対的には認めていない傾向にある。「大学に進学さえすれば、何かあるだろう」という教育に対する期待意識には、差があると指摘する。(191 頁)
教育と子どもの貧困という言葉を結びつけて考えるとき、教育はその道具的な側面を強調した理解がされやすい。貧困ゆえに不利な環境に置かれた子どもに学力をつける、ないしは進学させる。そうすることで現在の貧困に起因する教育不利を軽減し、将来貧困に陥ることを防ぐというように。こうした回路のもとでは、「貧困」という社会問題の解決を子ども本人に求めることに疑問がもたれにくい。むしろ貧困にある子どもたちにこのような教育を施すことは「良いこと」と捉えられる。こうして「子どもの貧困と教育」というテーマは、貧困を個人に矮小化して捉える回路を強化してしまいやすいというのだ。(317 頁)
学習支援は、教育を子どものものにはしていないのではないか。支援する側の道具にしかすぎないのではないか。弱者に寄り添う学校教育とは何か。子どもたちにとって学校生活はどのようものであるかを問い直す必要があると受け取りました。