いつも同じ友達だけが授業で当たっている。悔しい。
小学校6年生からの想いに応えた。宮崎日日新聞の12月4日(月)に掲載された。脱稿したときの文章である。先生の指導性を批判するのではなく、現状を変えていく主体を育む学習集団づくりの視点から回答したものとなった。
「どうすれば、授業で発言することができるか」ではなくて、「授業ではどんな発言をすることに価値があるか」を考える必要があります。先生からの質問に答えて、みんなの前で正解を発表することに囚われていると、いつも授業で先生に指名されている人も、指名されていない人も、どちらも損をしています。
友達の発言を自分の言葉で言い換えたり、友達の発言を短く言い直したり、友達が発言した内容に別の視点から理由や例示を付け加えたり、図や表など異なった表現で説明したり、授業では友達の発言に続けて発言するときに、価値が生まれます。あるいは、教室では、友達の発言に「同じです」と言うしかないような「質問」ではなく、自分以外の人の考えも聴きたくなるような「問い」にこそ、積極的に発言していく必要があります。
友達の発言に続けて、「ここは、どういうこと?」「どうして、そうなるの?」と尋ねたり、「たとえば、こういうこと?」「だったら、この場合は?」と友達の考えを確かめたりする。そうしたとき、教室の学びには深みが生まれます。授業での発言は、先生にするものではなく、友達にするものです。自分がわかったときにこそ、わからない相手の立場に立って自分が考えたことを伝えようとすると、わかっていない友達がどのようにわかっていないのかが見えてきたり、自分がわかったつもりになっていることに気づいたりすることもあります。
自分の考えと比べながら友達の発言を聴き、まだ納得していない友達のために説明のし方を工夫する。わからなさを大切にしてみんなでわかろうとするところに、大切な学びがあります。正解や思いつきを出し合っている教室ではなく、語り直しがある教室を自分達でつくりませんか。そうした教室で、自分勝手な頭のよさではなく、相手の立場に立てるやわらかなかしこさを身につけてみませんか。