文學界4月 Aマッソ加納『ステンドグラス』がヤバすぎる。
彼女のエッセイ集「イルカも泳ぐわい。」に掲載された「帰路酒」を読み、彼女のユーモアのある言葉選びに惹かれ、彼女の頭の中に広がる世界を覗き見たいと思った。
親との距離感で悩む人々は少なくないだろう。私もその一人である。
主人公が目にする、母親の首元に刺さるステンドグラスは自分という存在が重荷になっていることを象徴しているようだった。
実際、母親は子供がいるから趣味でやっていたステンドグラスは彼女が生まれて辞めてしまった。
果たして、子供という存在は悪であろうか。
子供は肉欲から生まれたという原罪を背負っている、原罪説というものがある。また近代以前の考えで、子供は労働力が足りないお荷物的存在だった。
無論、子を溺愛する親こそ美徳という風潮が現代に広がっているが(ベストファーザー賞など)、未知で無力だと薄々感じている子供からしたら、心のどこかで親の重荷になっているのではないかと感じる瞬間は今でもあるだろう。
だからこそ、子供は親の機嫌を取る為に試行錯誤を繰り返す。
主人公は母親のステンドグラスが取れないように、ジェットコースターに乗ることを止める。また誕生日プレゼントを渡したり、授業参観の時、学校で自分なりに楽しんでいる姿を見せつけるのだ。
上手く言葉で伝えられない子供は行動で親に好かれようと試みるが、悉く親の期待とズレてしまう。このズレから親子の関係性がより大きく離れていくのではないか。
私も彼女と同じように、親にプレゼントする時はこの上なく緊張するし、授業参観の時こそ手を挙げられなかったりする。父親の誕生日に「人間失格」をプレゼントしたなー。(今思うと親に向けたメッセージとして最低笑)
しかし親が子に求める姿はひたむきに楽しみ、頑張る「子供らしさ」であって、大人ぶった姿など望んじゃいない。
終わりに、親が私を重荷と感じてないことは重々理解している。しかし、両親にかける負担は考えるだけで罪悪感を覚えるのは今でもそうだ。だからこそ、これからもズレズレの思いやりをぶつけていこうと思う。