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学校の勉強する意味
「ぼくは1+1なんかどうでもいいんよ」
これは、母親から聞いた自分が小学校2年生の時に言った言葉らしい。小学校2年生の時は学業が不安定だった思い出がある。1学期、2学期、3学期と担任が妊娠し、最終的に教頭が授業を始めた頃から勉強をやめた。
自分は、勉強する意味が分からなかった。自分の必要性の無いものに、向き合う気がしなかった。またその当時の算数の「掛け算」が自分の勉強を狂わせた。
家族や親戚のお兄ちゃんが、問題を出しては、間違えた自分を笑っていたのだ。今でも覚えている問題がある。「7掛け3は?」これが21なのか28なのか覚えられなかった。
ここで、自分はこんなことで馬鹿にされるのなら勉強をやめようと決意した。あの時、バカにされたことは今でも鮮明に覚えている。
しかし、勉強をやめたとはいえ、学生時代は基本的に「勉強しろ勉強しろ」と言われ続ける。
そこで、自分は色々な大人に勉強する意味を聞いてみた。
「学生は勉強が仕事だ」
「将来のお金が変わってくるよ」
「目の色変えてやれ」
「大きくなったら、あの時勉強していたら良かったと後悔するよ」
色々な大人の回答があったが、子どもの時はお金に困っている訳ではないので、お金のことは響かない。将来の為や仕事のことを言われても、現実味がなかった。
勉強は適当にしながら、子供は大学に行かせたいという両親の後押しで、何とか大学には行った。
大学の同級生にも勉強の意味を聞いてみた。その時驚いたことに、勉強をやらされて大学に来た人は1人もいなかった。
「この大学に入りたかったから」
「したい仕事がある」
「1年間遊ぶのをやめて、将来のことを考えた」など
「何で勉強しないといけないんだろう」と稚拙なことを言っていたのは自分だけだった。
学校卒業して社会人になり40歳になった今、何で勉強しないといけないのか、自分なりの答えを考えてみた。
『学校の勉強は、社会の評価の指針の1つ』
つまり社会のルールだった。
社会が学校の勉強を評価すると言っている。特に、学校の進学や、仕事を選ぶ際に勉強が指標とされる。
実際に高校進学や大学進学などは、学校の勉強の評価が9割。スポーツや芸術は1割程度じゃないだろうか。
つまり、その現実をいち早くとらえて、なぜ勉強をするのかという課題と戦うより、そのルールに対していかに対策を行っていく方が、解決思考だと思う。
サッカーで言ったら、自分は「なぜ手を使ったらいけないのか?」とずっと文句を言っている様なものだった。
確かに、学校の勉強が不毛な部分はある。漢文のレ点なんて卒業後1度もお目にかかったことはない。何の為か分からないとこをすること程、辛いことはない。
しかし、進学にしても就職にしても選ぶ立場からしたら、何も指標がないと誰が良くて誰が悪いかなんて分からない。万能ではないにしろ一定のポジションを取る必要があると思う。
そして、学校の勉強はすべてつまらないのかと考えると、そんなこともない。今、人を雇用する立場になって分かることがある。
まず、学校の勉強は基本的に答えが1つ。そこに至る経緯、つまりロジカルシンキングを鍛えることが出来る。勉強が出来る職員は2度失敗する様なミスが明らかに少ない。物事の理解や言語化も上手。そもそもロジカルに考える力がないとビジネスシーンでは会話にならない。
次にやりたくない物に対しての向き合い方を知っている。努力の仕方、頑張り方を知っている。大変な状況での耐性がある。
東京都立大学の宮台教授は、「幼少期の肥大した自己万能感は、適切な反抗期を経て自分が世界の中心ではなく、社会の参加者の1人だと気付くことだ」と言っていた。
自分は、学校の勉強から逃げることで、適切な反抗期を迎えずに、子どものまま大人になってしまった。
もし、今学校の勉強に疑問を持っている人がいたら、まずは、この社会のルールについて考えて欲しい。
その中でこのルールを逆にハックして欲しい。
勉強さえ出来れば、性格がひん曲がっていても、スポーツ出来なくても、貧乏でも、社会の中で戦っていける。
この社会の複雑なルールを解いて、自己実現を叶えて欲しい。