名作か、迷作か!?「戦いのにおい」とは何か?~機動戦士ガンダム 第15話「ククルス・ドアンの島」感想
冒頭ナレーション
冒頭ナレーションで、初めて図面が登場した。地球や月、各サイド、ルナツーの位置関係が非常によくわかる。
こういうのはもっと初めの方に紹介しても良さそうだが、ここまでは絵と構図で説明する手法が繰り返し用いられており、そちらの方に個人的にはプロの技を感じるところである。
連邦軍の緊急信号
今回は、コアファイターとガンダムパーツのドッキングの訓練シーンから物語は始まる。
第13話で、カイとアムロが空中換装をいきなり実戦でテストしてしまい、ブライトがブチ切れるシーンがあった。
今回のような訓練を何度も何度も行った上で実戦へとなるのが本来の順序だ。アムロたちはこうした訓練を毎日のように行っているのであろう。
それでもブライトから「遅いな。もう4秒短くならんのか?」と注文が入る。日常生活の感覚では「4秒くらいいいじゃないか」となってしまうが、しかしここは戦場である。この数秒でクルーの生死が分かれるかもしれない。そう考えれば、短縮できる部分は極限まで短縮しておくに越したことはないのだ。
コアファイターの離脱シーン
まったくである。ホワイトベース内でならアームがあるのでスマートな離脱が可能だが、外でコアファイターが離脱する方法は、ガンダムの構造上こうするしかないのか。
あまりにも衝撃的過ぎて、私にはカッコ悪いとか見たくないとかそういう次元を超越したギャグシーンに見えてしまった。
なお、このシーンで、コアファイターを一部スケルトンにして操縦席内のアムロを描いている描写がある。
機械と同時にそこに乗り込んでいる人物も一緒に描く手法だ。
このほかにも「機動戦士ガンダム」ではモビルスーツのカットにパイロットのカットを挿入する手法も用いられている。
こうした表現が「機動戦士ガンダム」から用いられているのか、それ以前からも存在していたものなのかはリサーチしていないが、モビルスーツの動きと人物同士の会話やドラマをスムーズに描く手法として面白い。
囚われている連邦兵
生きたままシートにしばりつけられている連邦兵。炎天下で水分補給も不可能な状態である。
相変わらずカイは冷笑的にではあるが的確な指摘をする。
救難信号が出ているのであるから連邦軍は当然救助に向かうべきである。救助を求めれば必ずやってきてくれるという信頼があるからこそ、兵士は戦場で命を懸けた行動をとることができるのだ。
連邦軍の救助がきていないという事実は連邦軍側の窮状を物語るものである。
アムロvsドアン
この場面でアムロはなぜザクとの戦闘を選んだのだろうか。
見たところドアンのザクはライフルやバズーカを所持していないし、ヒートホークもない。攻撃手段が見当たらない。
コアファイターに乗り込めたのであるから、そのまま逃げてしまえばよかったのではないか。
ドアンのザクを撃退しなければならない事情も見当たらない。この時点では連邦兵もすで死んでしまっており、連邦兵を救助するためにドアンのザクが邪魔ということもない。
何か戦わなければならない事情があると仮定したとしても、少なくともホワイトベースに連絡し、応援を依頼するくらいのことはするべきだ。
唐突に始まったザクvsコアファイターだが、ドアンのザクに軍配である。
ポイントは巧みな岩の使い方にあったようだ。
助かったアムロ
ドアンに囚われてしまったアムロ。
さきほどの連邦兵と同じようにコアファイターにしばりつけられてしまうのかと思ったらベッドに寝かされていた。
ここでドアンがアムロを助けたのはなぜか。
その理由らしいものはこの回の中で描かれているのだろうか。それっぽい描写は見当たらなかった。
ドアンは「いずれジオンの連中が私を攻撃してくる」という。
また、コアファイターを返せというアムロに対して、ドアンは「返したら君だって私を倒しに来るんじゃないのか?」とも言っている。
だったらなぜアムロを助けるのか。さきほども書いたが、作中でその理由は語られていないように思われる。
さて、アムロはドアンに対して「子供をだまして」といっており、「ザクに乗るドアン=ジオン軍=侵略者=悪」というかなり単純な思考回路に陥っており、ドアンに対する敵意も明白だ。
そのドアンのことを子供たちが慕っているのが理解できないので、ドアンが「子供たちをだましている」と考えている。
他方、ドアンの方は「無駄な争いはいかんといつも言ってるだろ」とアムロに対する敵意は感じられない。
殴られるアムロ
ここのところよく殴られるアムロ。今回はロランに平手打ちを食らっている。ここでアムロが殴られるシーンをまとめておこう。
・1回目、2回目 ブライトから(第9話)
・3回目 リュウから(第12話)
・4回目 ロランから(今回)
次にアムロを殴るのは果たしてだれか!?
気の休まらない生活
ドアンはジオン軍に命を狙われいる。
悪夢にうなされ、夜中に起きだしてはジオンの動向を探る。気の休まることのない生活だ。ドアンがこんな不安な生活を続けている理由はのちほど語られる。
このシーンは実にエモい。子供たちを守るという責任感に押しつぶされそうになりながらも必死に生きようとするドアン。
「あたしなら平気よ」といって、その後ろ姿をそっと見守るロラン。
ロランはドアンのよき理解者である。さらに想像力を豊かにすれば、恋心も抱いているのではないか。
しかし、ドアンはそうしたロランの気持ちには気づかない。いや、気づいているがそれを押し殺そうとしているのではないか。ドアンにとってロランたちはあくまで守るべき対象であり、恋愛だのというような対象ではないのだ。
ロランの恋は果たして成就するのか、今度公開される映画版で期待したい。
ジオン軍の追撃隊の襲来!
ルッグンにぶら下がってザク登場。ザクの重量や空気抵抗などを考えた場合、ルッグンは本当に飛行できるのだろうか。
やはり無理やりザクを登場させるための演出といった感じがぬぐえない。
ザクは子供たちが狙ったり、家を壊したりとやりたい放題だ。
その後、若干遅れてホワイトベースも到着。アムロはガンダムに換装する。
演技が人間に・・・
このシーン、ザクに「待て」と制止されびっくりしたガンダムが両手を広げている。ガンダムの演技が完全に人間のものである。
また、ドアンのザクがわき腹を撃たれるシーンでも、ザクがわき腹を押さえ膝をつき、いかにも痛がってますという演技をしている。これも完全に人間の演技であり、ロボットの演技ではない。
これまでのロボットによるリアル戦争路線からは考えられないような演出である。
ドアンパーンチ!
ドアンのザクのパンチがボディに決まった。勢いで爆発するザク。ここでザクが爆発してしまうのは、ザクに設計上の欠陥があるのではないかと思ってしまう。別の決着の付け方の方がよいだろう。
脱走兵
ドアンは脱走兵だったようだ。
ここでも説明されるとおり、敵前逃亡は重罪である。戦線を危険にさらすだけでなく、敵方に捕えられれば自軍の機密が漏洩してしまうからだ。
ドアンの島にやってきたザクとルッグンは、ドアンからジオン軍の機密が漏洩することをおそれ、それを防止するためにドアンを殺そうとしているのだろう。
ドアンは逃亡前はそれなりの地位にあり、ジオン軍の重大な機密にも接触できるような立場にあったと考えられる。
「戦いのにおい」とは何か?
「あなたの体に染みついた戦いのにおいを消させてください」といってガンダムに乗りこむアムロ。
何をするのかと思っていたらザクを海へ放り捨ててしまった。「戦いのにおい」とはザクのことだったのだ!
「なにするんだ!」と怒る子供たちをなだめ、「いい少年じゃないか」とアムロの行為に納得するドアン。
とてもハートフルで人間味あふれる熱いシーンである。
しかし、意味が分からない。
さっき判明したようにドアンは脱走兵である。ジオン軍がドアンにこだわるのはドアンからジオン軍の機密が漏れることを危惧してのことであろう。
アムロはザクこそがジオン軍の追撃を誘引する原因となっていると考えたようだが、ザク1機をもって兵士が脱走したからといって、そのザクを破壊したり取り戻したりするためにジオン軍が動くとは考えにくい。
つまり、ジオン軍にとって憂慮すべきなのはドアンであってザクではない。「戦いのにおい」という表現を用いるとすれば、そのにおいの発生源はドアン自身である。
ゆえに、ここでザクを海に捨ててもドアンの死亡が確認されない限りはジオン軍の追撃はやまないはずだ。したがってアムロの行動は全くの無意味である。
いや、それ以上にドアンたちにとって害悪といってもいいかもしれない。
今回のジオン軍のザクとの戦闘でドアンたちは住むべき家を失った。今後もこの島で生活を続けるのであれば、家屋を再築しなければならない。その際、ザクのような汎用型のロボットがいるのといないとのでは大違いである。
ドアンは「いい少年じゃないか」などと言っている場合ではないはずだ。「何してくれてんだ!」と子供たちと一緒にガンダムに向かって石を投げるべきである。
もっとも、この時点でアムロのドアンに対するまなざしはかなり変化している。悪だと考えていたドアンは、実はそうではなかったことに気づいた。だからこそアムロはザクを海に放り捨てるという選択肢に思い至ったのであろう。
第15話の感想
この回は、作画もさることながら、脚本や演出がどうしても気になってしまった。
ロランやドアンが指差しながら「あなた」とか「わたし」などと言っているのは日常の動作としては不自然である。
また、待てと制止されて両手を広げるガンダムやわき腹を抑えるザクなど、ロボットに人間を演技をさせてしまっている。
唐突に始まったドアンのザクとコアファイターとの戦闘も、悪のロボット・ザクが登場したから正義のアムロがやっつけようとした、という風に理解すれば非常にしっくりくる。
しかし、これは「機動戦士ガンダム」が追求しているロボットのリアル戦争ものではない。
その他、細かな「おや?」と思う部分を挙げていけばキリがない。
しかし、批判だけしていてもあまり楽しくないので、ここでこの回で描こうとしていたものは何かを考えてみたい。
私が考える限り、それはやはり「リアルな戦争」とそこでの「アムロの成長」であると考えられる。
ドアンという脱走兵を描くことで、軍隊という究極の組織体であってもその中で実際に動いているのは人間であり、様々な葛藤・対立があることを示そうとしている。
実際、Wikipedia情報では、ベトナム戦争時の1971年、アメリカ軍で3万3000人を越える脱走兵が出ている。これは総兵力の実に3.4%にも及ぶかなりの割合だ。
イラク戦争でも、2003年と2004年の2年間だけで5500人以上の脱走兵が出ているという。
第2話で、兵士は戦場で敵兵を撃つことができないと述べたのと同様に、兵士は脱走するものというのが戦争のリアルである。
そうした脱走兵ドアンとアムロとの交流を描き、そこでアムロがどう成長するのかという点もテーマの一つだ。
ドアンはミスによって子供たちの親を殺してしまった。子供を殺せという上官の命令に反してドアンは敵前逃亡をはかる。ここまでドアンはジオン公国のために命をかけて戦場で戦っていたはずだ。しかし、この瞬間ドアンが命を懸けて守る対象が変わったのである。
では、アムロは何のために戦っているのか。
ブライトに殴られたり、毎日毎日同じ訓練を繰り返したり、戦場で怖い思いをして病気になったり、誰かの「仇」になってしまったり、そんな大変な思いまでしてアムロがガンダムに乗るのはなぜなのか。
ジオン軍に命を狙われる生活を続けるドアンを見て、アムロは何を考え、どう変化し、どう成長するのか。
そうしたことを問いかけ、アムロや視聴者に考えさせる回になるはずだったのではないか。
現に、アムロは当初はドアンをジオン軍と同視し、完全な悪だと考えていた。しかし、そうした単純な見方が誤りであったことに気づき、「本当の悪とは何なのか」をアムロなりに考えザクを海に投げ捨てている。
ドアン達と過ごしたのはほんの一泊二日にすぎなかったが、そのわずかな時間でアムロは確実に成長したのだ。
今回は、これまでのレビューではほとんど書かなかった批判が中心になってしまった。しかし、脚本と演出と作画さえよければ第15話「ククルス・ドアンの島」は機動戦士ガンダムの中でも屈指の神回となったのではないかと、分析しながら考えた次第である。
今度映画化される際にはこうした点を乗り越えた名作となっていることを切に願うばかりである。