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105_DJ Houseplants「Was Lost and You Found Me」

(前回からの続き)

約束の日の前日に、僕は星新一の本一式を袋詰めしておいた。キャリー付きのカートにまとめてくくりつけて、そのままカートごと渡してしまおうと思っていた。その方が相手も持ち帰るのが楽だろう。待ち合わせの時間より少し早い時間に駅に着いたので、カートを立てて一人で駅で待っていると、取引メッセージが来ていた。

「ごめんなさい!寝坊しちゃったので、少し遅れます!」
「いいですよ、僕は駅で待ってますから」
「本当にごめんなさい」

メッセージを返したてスマホを閉じた。仕方ないので、時間潰しに星新一の文庫本をゴソゴソと取り出した。今から手放そうとしている本だというのに、懲りずに最後の最後までこうやって僕の暇つぶしに付き添ってくれる。やはりなんとなく僕は彼らを手放すのが惜しい気持ちになった。カートの中でまだ僕の目に触れたいと思っている本があるかもしれない。

偶然にも自分がはじめて読んだ作品を手に取っていた。自分はその作品集の中でなぜか、「鍵」という話が気に入っているので、昔から繰り返し読んでいた。あらすじはこうだ。何かを求め続けている男がある日道端で風変わりな鍵を見つける。そしてその鍵に不思議な魅力を感じた男がその鍵に合う鍵穴を求めはじめる、という話。

パラパラと読み進めると、慌ただしい駅の雑踏の音なぞは途端に聞こえなくなって、驚くほど静かになる。僕は小学校の頃、学校の図書館にいた時の自分に戻っていた。久しぶりの感覚だった。あの時も星新一を読んでいるときは、周りの音がまったく耳に入ってこなくなって、僕はずっとこの作品の世界に、ただただ没頭していたのだ。

明るいところで見ると、どことなく異様な印象を受ける。ありふれた鍵とは、形が大いに違っていた。ほどこされている彫刻の模様は、異国的なものを感じさせる。だが、異国といってもどの地方とかとなると、まるで検討がつかなかった。その点、神秘的であった。

DJ Houseplants「Was Lost and You Found Me」

「あのー、こーたろーさんですか」

夢中になって本を読み進めていたら、ふと自分の名前を呼ばれたことに気付いた。少し低目だが、柔かい女性の声だった。本から顔を見上げると、一際目を引く綺麗な女性が目の前に立っている。ベージュのスプリングコートにホワイトのパンツに高めのヒール。セミロングの髪と透明感のある顔立ちと涼しげな目線に僕は一瞬目を奪われてしまった。彼女が髪をかき上げた時に、とてもいい匂いが漂ってきた。まるでどこかの女性誌から飛び出してきたモデルのようだった。

「え、あ、あの、はい」
僕はうろたえた。今まで、こんな綺麗な女性に声をかけられた経験などなかった。彼女は僕の顔を優しげな視線で見つめている。なんだろう、決して触れることのできない世界の人からよくわからない親近感のようなものも感じる。今まで味わったことのないこの不思議な感覚だった。
「こーたろーは、僕ですが、すいません、あのどちら様ですか」
「あの、えっと、星新一の…」
「え、あ、もしかして、鱒寿司さん?」
「ええ。本当にごめんなさい、遅れちゃって。お待たせしちゃって、申し訳ないです」

鱒寿司という半ばコミカルな名前とアイコンからは想像もつかないほど、綺麗な女性が目の前に現れた。そのギャップに、僕は一瞬、狐につままれたような気分になった。彼女は、遅れたお詫びによろしければコーヒーでも奢りますよと言った。僕はずっと彼女の顔に見惚れていて、正常な判断ができなかったが、流されるままに一緒に近くのカフェに行くことになった。全くこのような展開になることを予想だにしなかった僕は、いつものようにパーカーにスウェットパンツで出てきてしまったことを深く後悔した。駅のガラスに二人並んで映った姿を見ると、彼女に比べてどう見ても僕などは見劣りする男だった。

「すいません、なんか、無理やり連れてきちゃったみたいで」
「いえいえ」
「ごめんなさい、実は少し、お話もしたかったんです。周りにあまり、こういう話をできる人がいなくて」

彼女の言う通り、星新一に憧れて社会人になっても自分で短編を書いているような人間なんて、彼女の周囲にはおそらく存在しないだろう。僕は彼女にとって一際珍しい異物のような存在かもしれないし、同様に彼女は僕の人生の中において、ある意味においては異物であるのかもしれない。自分の人生にこれまで決して現れなかった、奇特な女性の出現というものに、僕は終始まごまごしていた。

「やっぱり、好きなんですか、星新一?」
「ええ、そりゃまあ、昔からこれだけ集めていますからね」
「私は、昔、小学生の時かな、とても仲のいい男の子がいたんです。もう転校しちゃったんですけど。その子に教えてもらって、その子から借りた星新一の本を夢中になってずっと、何回も何回も読んでいたんですよ。すごく不思議な世界だなあって」
「わかります。僕も小学生の時にはじめて読んでから、今までずっと読んでです」

「ええ。私も大人になってからも、なぜかずっと心の中にあって、あの世界の話が。だから、これからはいっぱい時間ができそうなんで、改めてじっくり読んでみたいなあって」
彼女はコーヒーのカップを持つ細長く華奢な手を少し気遣う動作を見せた。僕たちがいるのは駅前のなんのこともないチェーン店の喫茶店でしかないのに、彼女がそこにいるだけで、重力に逆らって浮かぶ空中庭園のようなとても優雅でゆったりとした空間であるように感じた。

「本をゆっくり読む時間ができたんですか」
「結婚して、仕事をやめて、彼の地方の実家の移り住むことにしたんです。」
「ええ?あ、そうなんですか」
僕はわかりやすいように、しゅんとした。こんな綺麗で星新一好きな女性が目の前に僕の目の前に現れても、すでに誰かのものになっている。まあ所詮現実なんてこんなもんなんだろう。しかし、自分がまさに星新一を手放そうとするこんなタイミングで、こんな女性が目の前に現れることになるとは、運命とはなんとも皮肉なものだ。

「そんなに遠くに行かれるんですか」
「富山なんですよ」
「富山、ああ、なるほど、だから鱒寿司なんですか」
「あ、バレちゃいました?あれ、すごく美味しいんですよ、この前行ったときに食べて、私、すごく気に入っちゃって」
彼女は照れながら笑って、そのはにかんだ笑顔がまた印象的だった。
「こんなに美味しいものがあるなら、たぶんこの場所でもなんとか生きていけるかもしれないな、って思ったんです。私ってすごく単純だから。そういう時って、ありません?」
「まあ、あるかもしれないですね」

「それでも、私にとって知らない土地だから、自分でもやることを探さないとな、って。だから、思い出したんです。本当にやりたいこと」
「やりたいこと?星新一ですか」
「そう、星新一を全部、読みたいなって」
「全部ですか。それはまた、なんで」
「なんとなくずっと思ってたの。不思議なんですけど、やっぱり、ずっと自分の心の中の隅っこにあったんです、この本の世界が。だからできたら自分でもこんな話を書いてみたいんです」

僕は大きな声で叫び出したい気持ちになった。「実は僕もそうなんです。僕も物語を書いてきたんです」って、今、自分目の前の女性の手を取ってそう伝えたい衝動をグッと堪えた。まるで今まで見たことのない七色の色彩を持った甲虫を、偶然森の中で見つけたような気分だった。しかし、今日、初対面の男にいきなりそんなことをされたら、いくらフランクに接してくれる彼女でも気持ち悪がられるだろう。さすがにそれくらいは自分でも弁えているつもりだ。何より自分はもう物語を書くのをやめたのだ。

「わかります。僕も、そういうの…」
僕は限りなく感情を抑えて、彼女の気持ちにそう言葉を言い添えるだけだった。そこから先は、なぜかどうしても言葉が続かなかった。
「ですよね。こーたろーさんには、なんとなく、わかっていただけるんじゃないかな、って思ってました」
彼女は髪をかきあげて、輝くように白い歯を見せて、にっこりと笑顔を向けてくれた。月並みな表現だが、本当にまるで真っ白で可憐な花が咲いたようだった。彼女はコーヒーを飲み干した後、星新一の本を見つめながらこう呟いた。

「ええっと、ごめんなさい。それで、こーたろーさんは、なぜ星新一の本をこんなにたくさん私に譲ってくださるんですか?」

譲る。そうだった、僕は今日星新一を手放して、彼女に譲るのだ。それでこうやって、彼女と出会うことができた。

なぜ星新一の本をこんなにたくさん私に譲ってくださるんですか?
あなたは星新一を手放すんですか?それは一体なぜ?

彼女の問いを反芻しながら、僕の頭は真っ白になった。
(続く)




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