125_METAFIVE「METAFIVE」
(前回からの続き)
そうだ、小山田圭吾と佐々木さんはどことなく似ている。
似ているといっても、見た目がどうこうというのではなくて、佇まいというかその人となりといった部分なのかもしれない。表面的なものではなく、根っこに通底しているものと言ったらいいのだろうか。もちろん俺は小山田圭吾の人となりなんぞ深く知っているわけではないが、それはある意味、佐々木さんについても同様だった。
あの記事で書かれたいじめの内容については、言うまでもないが、醜悪だし極めて邪悪なことであることは間違いはないと思う。それについて彼を擁護する気は全くない。悪いことは悪いのだ。しかし、それをもって、俺は個人的に決して彼の作品を含めて、彼の存在全てを断罪するような気にはなれない。
言うまでもなく彼の音楽作品自体は秀逸だったし、俺もそれに魅了された。彼の過去の過ちと作品は切り分けて考える必要があると思っていたからだ。よくテレビでも芸能人が薬物などお犯罪で捕まって際に、過去の出演作品がお蔵入りになることについてよく議論があがる。アーティストや芸能人の自身の人間性とその作品も同じ土俵のものとして捉えていいのかについては、俺は語るべき言葉を持っているわけではない。
そして、それは佐々木さんにも同様のことが言える。自分とは決して交わらないとはいえ、佐々木さんのこれまでの仕事ぶりと成果自体は素晴らしいと言えるし、俺はそれを評価する。たとえ、過去に文書改竄という決定的な過ちがあったとしても。
俺の親父も芸術家だった。俺が中学生の時くらいに、心臓発作で死んだ。それなりに才能もあって、海外を長く放浪して各地で残した作品もいまだに高値で取引されているとも聞く。しかしながら、俺たち家族にとっては散々な父親だった。
作品が売れたお金もすぐに自分で使い切ってしまい、俺の学校の給食費も払えないほど、家庭は困窮していた。母親からは「芸術家とかくだらないものだけにはなるな」と釘を刺された。親父は間違いなく社会不適合者だったが、しかしながら、それは彼の素晴らしい作品とは全く関係なかったように見える。
とはいえ、自分も所詮は人の親だ。もし息子の雄太が誰かからあんな仕打ちを受けたと知れば、決して相手の存在そのものを許すことはできないだろう。その点については疑いはない。その加害者の作品も、世に決して出してはいけないと思うかもしれない。
彼の人間性を知って彼の音楽を聴くのをやめた、という人もいるかもしれない。俺自身も確かにいじめの記事自体は当時から知っていたし、その記憶自体を頭の中から追い出して、盲目的に彼の音楽を称賛していたのは事実だ。
極論を言えば、彼の作品を聴くことは彼が犯したいじめに加担していることと同義なのだと言われれと、それは絶対に違うとも言い切れない。俺はいじめの事実を知っていたが、それは知らずに聴いていた人も多いだろうし。
米国ニューヨーク州では「サムの息子」の名で、若い女性などを連続して殺害した加害者である男性が一九七七年に犯罪手記を出版しようとした。これをきっかけに、犯罪者による手記の出版など自らが犯した事件に関連して得た利益を差し押さえ、犯罪被害者や遺族の訴えに基づいて、賠償に充てる「サムの息子法」が制定された。日本でも類似した議論などがよく起こる。
彼の音楽を聴くことは、彼の共犯者になることなのだろうか?「サムの息子」と小山田圭吾の作品を同列に語るのもなんとなくおかしな気がするし、そんなことは軽々に答えの出る話ではなかった。
しかし、あのニュースがこぞってテレビで騒がれていたとき、チームの若い女の子が、「あの小山田圭吾って、そもそも誰なんですか」と言っていたのを聞いた。彼を袋叩きにしているのは、実はそういう連中なのではないかと思った。
それはそうだ、世代が違えば、彼の音楽を耳にする機会もないのだろう。フリッパーズギターにコーネリアス。当時は皆、崇拝に近い感情をもって、彼の作り出すまさに時代の最先端の音楽を聴いていたのだ。
だが彼女たちからしてみれば、小山田圭吾というのは、過去のいじめがバレて仕事を辞めざるを得なくなった、単なるダサい気持ち悪い童顔のおっさんの作曲家と思われているのかも知れない。(散々な言い草だ)彼の素晴らしい音楽の一端にも一切触れたこともないのに。そんな連中がこぞって、首から上だけ地面の出された犬に対して安全な場所から石を投げつけている気がする。
小山田圭吾について、様々な思いが逡巡する。いずれにせよ、自分の中で言葉にできないモヤモヤのようなものが残る。なぜだろう、なぜ俺は今、小山田圭吾がこんなに気になるんだろう。単に佐々木さんに似ているからだろうか。(それも単に俺も一方的な見立てにしか過ぎないのだが)
なんで、こんなことになっちゃったんだろうな。
それが、俺の人生の中で現れた、全く違う2人の登場人物に対して抱く一つの共通の感情だった。俺はなんとなく小山田圭吾の音楽をなんでもいいから聴きたくなって、スマホを取り出して、youtubeを検索する。
コーネリアスの「Sensuous」というアルバムは本当によく聴いていたし、ツアーのライブにも行った。確か京大の西部講堂でのライブで、彼の音楽が好きだという女の子と一緒に見に行った。
(彼女はあの記事の内容は知らなかったと思う。確か、ライブの前座がドラビデオという関西でも相当アングラなアーティストで、その不適切な内容を含くんだパフォーマンス内容に彼女も辟易していたように見えた。それが小山田圭吾の人間性とどう関係があったかは今ではわからない)
考えてみれば、大学を卒業後、最近の彼の音楽などにもまったく触れていなかった。これでは、あのチームの女の子とそこまで変わりはないじゃないか。wikiによれば、彼は最近は、META FIVEと呼ばれるグループでも活動をしているようだ。
このMETA FIVEとやらは、wikiによれば元々はYMOの高橋幸宏が新ユニットとして、小山田圭吾、砂原良徳、TOWA TEI、ゴンドウトモヒコ、LEO今井と共に結成された。
今年のフジロック(というか今日の)にも当初このメンバー編成で出る予定だったらしいのだが、案の定、小山田圭吾は出演をキャンセルした。明言はなされていないが、先般からのあの一件の影響であることは間違い無い。残されたMETA FIVEのメンバーであるLEO今井と砂原良徳にサポートメンバーを加えた特別編成で出演するのだと言う。
ああ、なんてことだろう。この残されたメンバーの気持ちを考えたとき、俺は今の我が身と引き比べて、なんとも言えないような気持ちになった。小山田圭吾がいなくなったMETA FIVEのメンバーと、佐々木さんがいなくなった俺を含むプロジェクトのチームのメンバー。俺の近視眼的な見方からすれば、なんとも近しいが、それは似て非なるもの。
しかも、だ。ちょうど8月20日の今夜、フジロックでこのMETA FIVEのリアルタイムのライブ映像がyoutube上で無料で配信されるらしい。なんとも好都合である。
なぜ、小山田圭吾と彼がいないMETA FIVEのことをここまで気になるのかはわからない。とりあえず、家族も今夜はいないのだから、なんの気兼ねをする必要もない。俺はシャワーを浴びたあと、配信が開始される時間までダイニングテーブルでビールを飲みつつも、スマホ片手に気長にMETA FIVEのライブの配信が開始される時間まで待つことにした。
(続く)