175_Eric Dolphy「Last Date」
朝起きたら、違う顔になっていた。
おかしい。自分の勘違いかもしれないが、鏡を見たときに違和感が拭えない。こんな顔をしていただろうか。35年付き合ってきた顔だ。そんな一晩で変わるとは到底思えない。昨日の自分と今日の自分で、そんなに見た目の差などが生まれるのだろうか。
妻はちょうど実家に帰ってしまっている。今の自分の写真を送りつけて、感想を聞く気にもなれない。困った。果たして、自分を完全に客観視する手段というものを持っていないことに気づく。あくまで違和感があるとしか言いようがなく、本当に自分の顔が変わったのか、証明できないのだ。
というか、昨日の自分の顔がどうだったのかも性格に思い出せない。自信がないのだ。ちょっとばかり、僕の頭がおかしくなったのだろうか。毎日髭を剃ったりするたびに、まじまじと自分の顔を眺めて、その変化のなさに僕はいつもため息をついていたはずだが。
しかし、このまま、普通に出勤して会社で変な目で見られないだろうか。もしかしたら大騒ぎになるかもしれない。僕はネクタイを結びながら、昨日と変わった顔で神妙な面持ちになった。
通勤電車の中では特段、普段と変わりない。僕の顔など電車の中のいくつものある顔の中に完全に埋もれてしまっている。誰も僕の顔の変化など気にしない。実は僕の顔が昨日と変わっているんですと言っても、そもそも昨日の僕の顔を皆知らないのだ。
よっぽど綺麗な人や特徴的な顔の人が毎日乗り込んでくるようであれば、自然と覚えるかもしれない。だが、僕の顔は昨日も今日もいたって平凡な汎用的な種類の顔だ。電車の中の誰が、僕の顔の変化を認識することについては正直あまり期待はできない。
だが、それはお互い様だった。もしかしたら、僕のように昨日と今日で顔が変わっている人も、実はこの電車の中に紛れ込んでいるかもしれない。しかし誰もそれを確認しようがないのだ。そういう人も僕のようにビクビクしながらネクタイを結んで電車に揺られているのだろうかと思うと、おかしみがあった。
そういう場合、皆、朝起きていきなり顔が変わってしまう恐怖に怯えながら日常を過ごすことになる。いや、逆に考えればそれもいい気分転換になるかもしれない。僕は地下鉄のガラスに映る自分の顔を見直してみた。ふむ、まあそうだな、顔の部類としては男前とも言えなくはない。もしかしたら、会社の女の子からの評判も少し変わるのかもしれない。漂うダンディズムというやつだろうか。
自分の顔をここまで気にしたことなどない。しかし一人で自分の顔を見て悦に浸っている姿を見られるのは、少しばかり気恥ずかしい。結局、どんな顔になったとしても、僕の顔が世の中の注目を浴びることなど、どのみち期待などできないのだ。
まあそれはいい。会社に着くと、顔見知りとなっている会社の警備員が僕を認識してくれるかどうか不安だった。
「おはようございます」
「あ、あ、おはようございます」
いつも通りの挨拶をくれた。警備員の方を一瞥しても特段怪しんでいる様子もない。普段と声色も変わりないし、僕を僕と認識してくれているようだ。いつも見ない変な奴が入ってきた、とは思わないらしい。気づいて欲しかったのか、気づいて欲しくなかったのか、僕は何とも言えない気分になった。
恐る恐るドアを開けて、職場の席に着いた。隣の主任はいつも通り朝ごはん代りのパンを頬張りながら、甘ったるい飲むヨーグルトで胃の中に流し込んでいる。こちらの顔を見る様子がなかったので、僕の方から声をかけた。
「おはよう」
「あ、ウイっす、おはようございます」
主任は僕の顔を見ても、やはりと言っていいのか、特段のリアクションを見せない。僕はパソコンの電源を入れて、画面を覗き込みながら、正直なところ、いよいよもって自信がなくなっていった。僕は顔の前で両手を組んで、ぼーっと考え込んでしまう。今の自分の顔が昨日の自分の顔と変わっているのだと、誰も言ってはくれないということか。どうなっているんだろう、やはり僕の勘違いなんだろうか。ずっと昔から変わらずこういう顔なんだったのだろうか。
「なあ」
「なんすか」
「俺の顔、なんか変わってないかな」
「え、顔すか」
主任は改めて、僕の顔をまじまじと見つめた。僕は少しばかり居心地の悪い気分になった。
「いやあ?特にそんな」
「変わってない?」
「少し、むくんでんすかね。昨日、飲み過ぎたりしたんですか?」
「そんなんじゃないんだ。いや、なんか俺も朝起きてから違和感があって」
「特にいつも通りの係長の顔ですよ」
「そうか、わかった。変なこと言ってすまん」
主任の訝しんでいる顔を見て、会話はもうそこで終わらせようと思った。これ以上はやはり自分に自信が持てなかったからだ。自分の顔に自信が持てない。なんともおかしな感覚だった。
僕は宙に浮いたような感覚だった。だが、僕がどんな顔をしていようが、仕事はいつも通りやってくる。営業先の顧客にあったり、企画部の人とMTGをしたりしたが、誰も僕の顔の変化に気づくものはいなかった。結局、1日いつも通りの仕事が終わった。会社を出た時に、改めてビルのガラスに映り込む自分の顔をまじまじと眺めた。
いや、やっぱり実は自分は昔からこんな顔だったんじゃないか。朝はやっぱり少し寝ぼけていたんだ。思い出せはしないが、自分の顔が変わるような変な夢でも見ていたのかもしれない。そうだ、そうに違いない。そう思い込ませるようにした。自分を無理やり納得させるようなことは、人としてこの世に生きている限り日常茶飯事だ。
家に帰り、一人で飯を食って、少しばかり白ワインをあおった。歯磨きをしながら鏡を見ていると、昨日とは違う自分の顔も1日も経つとすでに慣れてくるものだ。人間の慣れというのは恐ろしい。だがそうやって日常に順応していくのだ。不思議なものだ。
さあ寝ようかという時に、ふと一抹の不安がよぎった。はてさて、明日の朝の僕の顔はいったいどうなっているのだろう。そうだ、写真でも撮っておこう。そうすれば写真と見比べて、本当に顔が変わったかどうかわかる。僕は携帯で自分の顔を自撮りしてから(そんなこと何年もやってないことだったのだが)、ベッドに入ることにした。そしていつの間にか、僕の意識は遠のいていった。