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1363_金延幸子「み空」

この前、72歳で死んだおじさんが、どうやら私に遺産を残していてくれたらしい。

おじさんは3年前に死んだ父の弟だ。生きている間も、父はおじさんについて多く語らなかった。

「あいつはいつも自由気ままにやっているからな」
おじさんの話になると、そうやっていつも父は遠い目になった。それがおじさんのことを表す言葉だと思った。自由気まま、それは裏を返せば無責任ということ。

無責任な人は、他人に迷惑をかけるのを、なんとも思っていないんだ。私みたいに大きく横道に逸れない人間にとって、そういった人たちは迷惑極まりないし関わりたくない。おじさんもそういった類の人なんだろうと勝手にそう思っていた。

他人に対して、いろいろと思い出し怒りのような感情がどうしても湧き出す時がある。例えば、この前の電話の会話が頭の中でグルグルと回って仕方ない。あるどうしようもない男との会話。

「ああ、金がねえ。この前の仕事も続かなかったし、今月ピンチなんだよ」
「知らない」
「なに、知らないって、ねえ、ちょっと話聞いてよ」
「うっさい、もう電話してくんな」

幼なじみの康二とは、本当に腐れ縁ってやつで、今だにこうやって電話をかけてくる。おおかた、金がないだの、金貸してくれだの、お金があればガールズバーの〇〇ちゃんに会いに行けるだのと、くだらないことしか言ってこない。

その当時、康二が付き合っていた女にフラれて、高校の時に一瞬、気の迷いでほんの短い間付き合ってしまったのが、それがどうにも一生の過ちだった。その時に、こういった男と一緒になると女性は不幸になるのだと痛感し、以降は私のセンサーはダメ男には妖気ビンビンに反応していた。

おかげで鍛えられたダメ男センサーだったが、ひとつ弱点がある。イケメンには反応しないことだ。康二も顔だけは悪くはなかったが、いかんせん顔以外は全てダメだった。世のダメ男は顔もダメにしておいて欲しかった。

ダメ男に人生をダメにされてしまうことがないよう、それから私は慎重に慎重を期して生きることにした。ダメ男は自分勝手で隙あらば私のような女にすり寄って、自分の欲求を満たそうとする。だから私はガチガチにガードを固めることにした。そして、30近くになっても康二以外の彼氏ができたことがなかった。

「おじさんも、やっぱりダメ男の部類だったのかなあ」
「さあ、私もよく知らないわ。お父さんからも、あんまり話聞かされてなかったから」
「どういう人だったんだろうね。若い時から海外を放浪していたんでしょ」
「お父さんと私の結婚式にね、どこかの民族衣装みたいなものを着てね、ひょっこりやって来たの。私もその時、正さんとはじめて顔を合わせたもんだから、もうびっくりしちゃって」
「へえ」
「お祝いだっていうから、何かと思ったらズタボロの袋から、よくわからない石みたいなものをくれたの。どこかの外国の川のほとりの珍しい石なんだって」
「すごいね、それって、今どこやったの」
「さあ、どこにいったかしら。お父さんも嬉しがって、家の中でとっておいたけど。正直、私はよくわからなくて」

堅物で世間知らずの母親にとって、やはりおじさんの存在は奇異に映ったのだろう。あまりよく思っていなかったのは、話しぶりからわかる。せめて、身内には迷惑をかけないでもらいたいものだ。

せせこましく、日本で生きている私みたいな小さな人間には、あまり関わり合う必要のない世界の人なんだろう。真面目な両親の下、奨学金を取って、無難に地元の大学を卒業した以降は、実家の近くの医療事務の仕事をずっと続けている。でも10年経っても、奨学金をまだ返し切れない。

私を含めて、日本の若者の未来の可能性は暗いとしか言いようがない。少子高齢化で人手不足。それなのに、給料は全然上がらない。

結婚して子どもができても、火の車のように生活の全てに余裕のない同級生ばかり。声をかけてくるのは、あいにくと康二みたいなどうしようもない男ばっかり。結婚に幻想なんて抱いていない。そもそも、私なんて奨学金があるから、マイナススタートでゼロの地点にも立てていないっていうのに。

いつかこうなりたいなって思える人が周りにいない。考えgs凝り固まった母の姿を見ると、私もお母さんの子だからいつかは年取ってこうなるんだなってことが確信に変わる。

それなら、もっとずっとなるべく省エネして、なんとか息をしているくらいの中で、この日本を生き延びていこうとするしかないじゃないかな。外国の男は円安で安いからと日本まで遊びに来て、お金に困った日本人の女を買っていくのだと聞いて、どうしてもいたたまれない気持ちになる。私は体は売れないけど、売ってまで得たいものさえない。

おじさんはいったい外国で何を得たのだろう。

おじさんの記憶は、砂漠の中で見た幻のようなもので、幼い私にとっては遠い遠い場所のようなものだ。私は確か5つくらいだったと思うが、その時はおじさんは確か海外の長い旅から帰ってきたあとだったらしい。

なにか中東の香り漂うお土産の置物(ラクダだったか像だったか)をくれたのを覚えている。そして、その置物が全然かわいくなかったので、アニメでやっているかわいいキャラクターがいいと、おじさんがいないところで母にこぼした。おじさんとの思い出はそれくらい。

その時のおじさんの顔は、確か髭が生えてたかな、程度。若い時のヒゲのないおじさんの写真を改めて見ても全然ピンとこない。端的に言えば私にとって、ひげイコールおじさん。幼い子供なんて、1つや2つの特徴的な顔のパーツでしか人間像を認識しないものだ。

なにしろ、家と幼稚園と近所といった幼児にとってほんの小さな狭い世界の中で、髭を生やした大人の男なんて、おじさん以外見たことなんてないんだし。子どもながらに、明らかにおじさんのことを異物扱いしていた気がする。


そんなおじさんが、遺産を私に残してくれた。それがなんと、およそ、1千万円ほど。母から電話でこの話を聞いたときに、「このお金さえあれば、奨学金が返せる(それでもお釣りがくるぞ)」直感的にはそう思った。

と同時に、私の頭の中に、ハチの巣を突いたように内なる声が散発的に飛び交った。
「奨学金がなくなったら、もうつまんない今の仕事も辞めちゃって転職してもいいかも」
「もしかして、イラストとか自分の好きな仕事にでもチャレンジしちゃう?」
「いや、この際、海外にワーホリとかもいいかも」。
しかしすぐに私の内奥のストッパー役がすっと現れる。
「ちょっと待ちなよ。そもそも本当にもらっていいものなの、このお金?」確かに。浮かんだ疑問は正しい。

慎重に慎重に、石橋を叩いてもなかなか渡らない私の人生の中で大きく作用する生存本能、いわゆる「これはなにかの罠ではないか」という危険回避のセンサーが働いている。

最近、新手の詐欺事件も流行っているし、給付金がもらえますよと甘い言葉を使って、個人情報を聞き出すような手口もよくあるらしい。ちゃんとしないと。世間知らずの母の代わりに、私が確かめないといけないんだ。

ひとまず率直に母親に聞いてみる。
「なんで私に遺産を?そもそもどういう経緯なの」
「正さん、独り身だったし、子どももいなかったからかね」
「それはそうかもしれんけど。なんか、おじさんの遺言とかなかったの?」
「なんも聞いてないのよ。なんか代理人?みたいな人から、朝、急に電話かかってきて」
「代理人?」
「正さんの事業とか遺産とか管理してくれている人らしいの、女の人なんだけど。なんか正さんの秘書とかやってたみおたいよ。正さんが亡くなったのを聞いたのも、その人からの連絡だったから」
「へえ」

たぶん、母はこれ以上の情報は持ってはいまい。そもそも母はおじさんに対してそこまで良い感情を抱いていなかったし。いかにも他人行儀というか「違う世界で生きている人」という扱いで明らかに一線を引いて話をしている。いい意味でも悪い意味でも、母はお金に対しても頓着していない。

私にとっても、おじさんは確かに違う世界の存在だったかもしれないが、たとえ距離や時間が離れていても血の通った関係を築けるかどうかなんて人のよるとしか言いようがない。

実際、私のおじいちゃん、いわゆるお父さんとおじさんのお父さんにあたる人だけど、私は大好きだった。北海道に住んでいて、会いに行けるのは年に1回くらいだったけど、とっても大らかな人ですごくすごく優しかった。私が大学生のときに、おじいちゃんが亡くなったのは我がごとのように悲しかったし、お葬式でおじいちゃんの死に顔を見るまで、どうしてもその死を信じられなかった。

そういえば、おじいちゃんからもおじさんのことについて話を聞いた覚えがない。あんな良いおじいちゃんを残して、家を出て海外を放浪して、おじさんは死ぬまで一人だったなんて。そして、いったいどういう心境で私にお金を残したんだろう。本当に世の中、わかんないことだらけだ。

「じゃあ、その人に直接私のほうから連絡してみる。お母さん、連絡先教えて」
「え?連絡先?いいけど」
「どういうお金か聞いてみないと、私、受け取れないよ」
「そうよねえ」

もったいぶった母親の態度に、いいから早く教えてほしいと少しイライラした。連絡先がどこにやったか覚えてないから、探してあとでメールすると言って母親は電話を切った。

そんなもの、固定電話の通話履歴を見ればすぐにわかるだろうに、とも思ったが、ここは私も一旦落ち着いて、頭を整理する必要があるなと思った。コーヒーを入れて、部屋のソファに腰かけながら、スマホの前で腕を組みながら、今か今かとじっと待っていた。

母親からきたメールにあった電話番号に「佐竹さん」とだけ添えてあった。それがおじさんの遺産を管理している秘書の女性の名前なんだろう。電話するのは後日にしようか迷ったが、こういったことは早めにやったほうがいいと思いなおし、私は一呼吸置いてから、スマホで番号をタップした。

2,3回呼び出し音が鳴った後、「はい、もしもし?」と妙齢で落ち着いた雰囲気の女性の声がした。

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