1007_P -MODEL「舟」
コンコン。
「どうぞ」
中からの返答を聞くや否や、僕は迷いなく速やかにホテルのドアを開けた。そして、できる限りスムーズにまるで軟体動物が巣穴に体を滑り込むように、部屋に入る。
あまり顔を目線を動かさず室内を俯瞰するように眺めると、ソファに座っている涼やかな顔をした女性を認めて、射るように視線を向けた。彼女はテーブルの上にあるタブレットから視線を上げて、僕の顔を無表情で見た。
「野々下さん」
「チーフ」
「はい、チーフ、ですね。すいません。今、戻りました」
「やるべきことはわかってますね」
「はい、Mからのネタですよね」
「そう、その報告を聞きます。簡潔に。事態は急を要します」
「はい、まずはこれを」
野々下さんは僕の上司にあたる。僕は主任で、彼女はチーフ。職名に明確な区別はないように聞こえるが、権限は大いに異なる。彼女は実質的に相当の権限を局長から委任されており、こと現場においてはかなりの裁量を担っていると言えるだろう。
彼女の判断に、僕は僕の持っている全てを委ねることになる。それが、たとえどんな結末になろうとも。それが僕ら情報収集者の生業だ。Mというのは、僕受け持ちの協力者の隠語である。
「ところで、なぜMなの?」
「奴がM字ハゲだから、僕が勝手にそう呼んでいるだけですよ」
「聞くんじゃなかった」
「それだけではないですよ、本名は緑川英治なので一応はMではあります。某菱商社勤務で海外情勢には相応にハナが効く男ですよ」
先週の金曜日に例のホテルでMから黒いバッグに入って少しかさばる荷物を預かっていたので、それを持ってきたのだ。バッグの上にテーブルの上に乗せると、少しばかり重量感がある。
密室で二人は顔を見合わせる。Mからはくれぐれも取り扱いには気をつけてくれと言われていたが、この業界にいて取り扱いに気を使わない案件など存在しない。特に対面で渡された”モノ”であれば、いろんな意味で警戒しないわけではない。
「ところで、あなた、臭いわね」
「すいません、おそらく焚き火の匂いですね」
「なんていうか、ケダモノの匂いね」
「かもしれません。人間も一皮剥けば、獣ですから。少し焦げているかもしれませんので」
今夜も彼女のことは抱けないなあ、と僕は残念に思った。野々下さんの前だと、僕の秘めた獣性が時おり牙を剥こうとする。他の女性ではこんなことはない(僕自身も彼女に出会うまでは、自分が女性に関心がないのではないかと懐疑的であったくらいだ)。こんな一流ホテルのベッドルームで彼女と繋がれたら、どんなに幸せだろうかと途中で頭がクラクラする思いだ。
話は先週末。
せっかく金曜日の定時きっかりと案件を終わらせ、野々下さんには「案件終了後、直帰」をメール決裁したのち、そのまま僕は3連休の休暇を上高地でソロキャンプして過ごそうと、19時発の新宿発松本行きのあずさ8号に指定席に滑り込むように乗り込んだわけだ。
だが、残念ながら休暇は途中で切り上げざるを得なかったわけだ。土曜日の夜に、官品携帯に「第二種緊急参集」のタイトルのメールを受信したからだ。
「げェ、二種?マジかよ。よりによって」
僕はキャンプ道具をリュックに詰め込んで、取るものも取らず、同じく松本発新宿行あずさ12号に乗ってトンボ返りだ。同じリュックの中にMからの”モノ”も入っている。列車の中で、メールの詳細と添付ファイルを見る限り、事態は想像以上に緊迫していた。
「ロシアの駐留軍は土曜日の夜半に渋谷をおそらく2個大隊が居留し、中国の駐留軍も同じく新宿まで群を動かして、そこからロシア側の動向を見守っている。どちらも同じ情報を狙っているからこそ、今回、同じタイミングで動きを起こしたと思うのよ」
「っすね。野々下さんの読みは正しいですよ、いつも」
2国の駐留軍が同時に東京で動くということ。これが何を意味するのか。少なくとも、3年目を迎えた僕の東京地方情報局入局以来の一大事と言っていい。だが、こんな時だというのに、僕の胸は大きく高鳴っていた。
時代がまるで大きな肉食動物のように身震いして動き出す時にこそ、僕らはその土埃と夜霧に乗じる形で、人目を憚っての暗躍しがいがあるというのだ。
黒い革製のバッグの中の”モノ”に手を伸ばそうとした、彼女に自分の手を重ねようとしたが、スッと手を引いた。彼女の人差し指の爪先に塗られた真紅のマニキュアが残像のように、僕の網膜に残った。チッ、と僕は心の中で舌打ちした。彼女の警戒心は一流の情報取集者のそれだった。
「開けてみてちょうだい」
「ええ、言うまでもなく」
中には、かなり古い型のノートパソコンが入っていた。それこそ、僕の祖母が研究室とかで使っていたようなタイプのものだ。
「DELL…。これデル、っていうんですかね」
「昔、役所で使っていたタイプね。昔、そんな名前のメーカーがあった気がする。とりあえず官が早く安く大量に仕入れるから、それに伴ってどうしようもなく質が悪いタイプの類の」
「なんだろう、スタンドアローンってシールが貼ってますね。なんでしょう、これ。どういう意味なんでしょうか」
「つまり、『繋がっていない』ってことよ」
「繋がっていない?」
「昔のパソコンはそれこそ、『繋げ』なくてはいけなかったわけ。あなた、わかる?」
野々下さんは、自分のこめかみの部分をトントンと指で叩いた。それは、僕にも彼女にも当然のように埋め込まれている『チップ』のことを示唆している。
そうか、つまりこれは『繋がっ」ていない時代の端末ってことか。
汲み上げられた水だけが溜められて、地下でどこにも繋がっていないままの貯水槽みたいもの。
「まさに時代の遺物ってとこですね」
「まあ、そんなものよ。Mは、なぜこれをあなたに?」
「さあ?とりあえず起動してみましょうか、これがボタンですよね、たぶん」
僕はキーボードの右上に所在なさげに座している「l」と「◯」を組み合わせたボタンを長押しする。幼い頃に、祖母の研究室でパソコンを触った時と同じだ。キーボードの押し心地に、なぜか、とても懐かしい心地がした。