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1353_楽しい日本
総理が国会で「楽しい日本」にしたいと演説した。もちろん、世間からは鬼のように不評だった。
「楽しい日本」?「楽しい日本」か、、、
まあいいんじゃないかなあ。小学生が考えたことならまだしも、一国の総理が国の舵取りの方向性を示す施政方針演説で「楽しい日本」というワーディングだとは到底考えられないけど。
そもそもなんでこれにしたんだ感がハンパないが、おそらく周りの側近や官僚が考えた言葉ではないことは明らかだ。どうやらこだわりの強い総理が年末年始に読んでいた作家の堺屋太一の本から拝借したらしい。
読書家の人にはあるあるだけど、沼のようにどハマりした本に書いてある言葉が、まるで自分に下された天啓のように思えてならなくて、それをいろんな場面場面にも無理くり適用しようとする傾向。
その人をよく知っている人からすると「ああ、たぶん、コイツは今これ系にハマっているんだろうな」っていうのが丸わかりである。見る限り、総理にはおそらく「読書」という引き出ししかないじゃないか。単独リソースの一本足打法なのだろう。
昨年のnoteを読み返していると、自分がちょうどハラリのサピエンス全史に耽読していたときには‘フィクション’とか‘虚構’という言葉を連発していた。
「どうせこの世界はすべてフィクションだし」はじめてカミュとかを読んだ中学生よろしく、そのときはだいたいそんなことを呟いていた。
たぶん、「楽しい日本」もそんなものの類に思えてならない。
要は、本だったりネットだったり、自分がはまりこんでいる世界が、致命的に世間の感覚とが一致していないことから起きる、ある種の事故なのかもしれない。
(ちなみに、自分は別に総理を人間的に嫌いかというと、そうではない。ただ、持ちうる感情が近親憎悪に近いというだけである。)