第1回 発達障害特性に対処しながら、放課後等デイサービスで働く~長田耕さん~【前編】|マイノリティのハローワーク|現代書館
長田耕(ながた こう)さんのプロフィール
大学の教育学部で初等教育(小学校と幼稚園)を専攻し、卒業。その後、別の大学の特別支援教育の免許が取れる課程に入学、卒業する。卒業後は小学校で特別支援学級の先生として8年間勤務する。小学校での勤務中に発達障害の診断を受ける。発達障害のなかでも、「広汎性発達障害」(注2)で、ASD(注3)とADHD(注4)が併発しており、不注意や衝動性を主としたADHDの特性が強め。小学校を退職後、就労移行支援事業所を利用して自身の特性や困りごとへの対処を身につけ、放課後等デイサービスを提供する株式会社Kaienに転職。現在は、放課後等デイサービスで発達障害特性や障害のある6歳から18歳までの子どもの支援に携わっており、勤務開始から5年目。
発達障害にうっすら気づいた大学生活
長田さんは、「人の気持ちがよくわからない」「人との関係がうまくいかない」ことに悩み、心理学を学んで人の気持ちとはどんなものか分析したいと考え、大学受験に挑みました。心理学部には合格できなかったものの、心理学(注5)、特に発達心理学(注6)を学ぶ機会のある教育学部に進学することにしました。
「(人との関係が)うまくいかないとはいえ、人と関わるのは好きで、教育学部は人に関わる仕事に繋がると思った」と語ります。しかし、長田さんにいくつもの困難が発生します。
長田さんは教育学部で初等教育を専攻しました。初等教育とは、小学校と幼稚園で教えるための教員養成課程です。小学校の先生は中学・高校の先生のように教える科目が決まっているわけではありません。国語、算数、理科、社会、そして音楽や図工、体育。全教科教えられるようにならなければいけないのです。
長田さんは音楽、特に楽器の演奏を苦手としていました。どうにか必要な単位は取ったものの、演奏のレベルは他の学生に追いつけるものではありませんでした。
楽器の演奏以上に、大学生活で苦労したものは人間関係でした。人間関係において、他者から拒否されると大きなダメージを受けてしまう特性ゆえに、人間関係がうまくいかなくなった際に、大学に行けなくなってしまった時期もありました。大学卒業までに7年かかり、最後の年は講義や卒業研究でアルバイトする余裕もなかったそうです。
教員養成課程では、発達障害について学ぶことが必修とされています。長田さんもそういった講義を受け、「もしかして、自分も発達障害かもしれない」と考えるようになりました。しかし、その時点では病院で医師の診断を受けることはしませんでした。「もうちょっと、診断なしで頑張ってみよう」と考えたのです。
小学校の教員はきつかったけれど……
大学卒業後に、別の大学の特別支援教育のための課程を経て、小学校の特別支援学級で働き始めました。
児童には慕われており、同僚にも児童に真摯に向き合う姿勢を評価されていましたが、突発的な事態に対処することや将来の計画を立てることが苦手で、やりにくさを感じていました。小学校は中学校以降よりも、急なトラブルが起こります。また、先生は授業をするだけでなく、教育計画も立てなければいけません。これは、6ヶ月後、1年後にどうなっていたらいいのかを考えていくものです。将来についての想像が苦手な長田さんには、計画を作るのは難しいことでした。
これらの苦手を抱えながら、退職前には朝6時半に出勤して、夜の8時や9時に帰宅するようなハードな生活をしていましたが、元々体力には自信があることもあり、児童のためと思えばモチベーションも上がり、働けていました。退職理由は先輩からのパワハラでした。こうして、長田さんは8年間の教員生活を終えることになったのです。
【後編】に続きます