武士論を検証する(3): 双務契約
中世の頼朝と関東の在地領主は主従関係を結びました。頼朝は命令者であり、例えば平家を滅ぼすようにと領主たちに命じます。一方、領主たちは頼朝に仕え、彼の命令に従い、平家を討ちます。これは主人―従者の上下関係であり、古代の主従関係そのものです。
しかし頼朝たちの主従関係は古代の主従関係と決定的に違っていました。すなわち彼らは上下の立場にありながら、同時に<双務契約>というものを結び、それ故、<対等な関係>にもなっていたのです。それが中世の主従関係です。
頼朝は関東の地の在地領主、例えば下総の千葉氏や三浦半島の三浦氏などと双務契約を結びます。双務契約はいわゆる<御恩と奉公>あるいは<保護と忠誠>の武家の契約です。
双務契約を結ぶ契約当事者双方は対等な立場となります。頼朝は彼らを保護する、そして領主たちはその見返りとして今度は頼朝を保護します。それはお互い様です。
頼朝の保護とは彼が関東国の盟主として領主たちに土地登記書を発行し、彼らの土地所有を認定することです。すなわち彼らの生存と財産を保障する。それは領主たちが土地泥棒ではないことを公的に証明するものです。というのは当時の関東は無法の地であり、土地の奪い合いが常態化していたからです。不法を取り締まるはずの地方長官は自ら権力を乱用し、領主たちの土地を奪う、そして領主たちも隙あらば、近隣の土地に侵入しようと企んでいました。
双務契約は中世の安全保障です。双務契約は12世紀の関東という無法の危険な地で、法に代わるものとして(相当程度)彼らの安全を保障するものでした。契約への加入によって千葉氏や三浦氏は安全を確保するのです。その土地を奪おうとする悪人は頼朝(と他の在地領主)によって退治されます。その結果、在地領主は<成り立ち>ます。武士の自立です。彼はその地を経営し、農民を使役し、生計を立てることができます。
この土地所有の認定は鎌倉時代において特に本領安堵と呼ばれました。それが頼朝の保護であり、そして頼朝の契約義務です。
当然のことですが、在地領主は頼朝に感謝します、そして今度は頼朝を保護する。すなわち頼朝の敵を討ち、頼朝を守り、頼朝の支配を死守する。<いざ、鎌倉>です。それは在地領主たちの頼朝に対する契約義務です。
在地領主が頼朝を守ることは畢竟、頼朝による本領安堵を維持すること、自分の土地と財産を守ること、つまり頼朝の保護は自分自身の保護です。頼朝あっての安全保障ですから。
すなわち契約当事者である頼朝も在地領主も互いに重い義務を負い、等しくその義務を果たすことによって安全を保障し合うのです。筆者は双務契約のこの平等主義を<二者の平等>と名付けます。
頼朝は領主たちに命令をする立場にあり、同時に彼らを保護する者となります。すなわち彼の命令は問答無用の命令ではなくなった。そこには頼朝なりの自重が発生する。在地領主たちの<成り立ち>を侵さないこと、つまり彼らの領主権を尊重し、彼らの領地経営に介入しないことです。頼朝の命令はそれを踏まえた上でのものとなります。
在地領主たちは古代王や軍事貴族に絶対服従する兵とは違います。在地領主たちは言わば治外法権を握ったのです。<中世は上位者が下位者のすべてを牛耳ることを許さない。>それは支配の形が大きく変わったことを意味します。王権の変質です。古代の絶対王権が否定され、中世の<相対王権>が誕生したのです。それは<他者を認める>思想の誕生です。
中世の主従関係はそうした洗練された、そして緊張感のある関係へと変化したのです。この変化は古代と中世との違いを明瞭に示す。
双務契約の誠実な履行によって頼朝と在地領主たちは安全を確保し、自分たちで生命と財産を維持し、生計を立てることが可能となりました。言いかえますと安全保障の確立は自分たちですべての<決済>を処理できるようになったということです。決裁者は頼朝であり、彼ら自身です。
頼朝たちは最早、古代王に服従しなくともよくなったのです。古代王による<決済>を必要としません。それは無価値です。古代王に服従せずとも安全を確保し、土地の登記や生活のための諸々の規則(やがて武家法となるもの)を自ら決することができます。古代王は千葉氏や三浦氏の領地に指一本、触れることはできません。それは古代王からの解放であり、決別です。頼朝たちは自立する。そして独自の支配圏を形成します。それは鎌倉幕府の開府であり、そして関東国の建国でした。
―――(4)へ続きます