メディアと欲望
誰かしらが、新しいメディアを用いて悪事や犯罪を為したとき、必ずといってよいほど、
悪いのはそのメディアではなくてそれを使う人間。だから特定のメディアを批判するのはナンセンスだ。
といった意見が出てくる。
近代哲学の父デカルトは、「身体のない精神を想像することはできるが、精神のない身体を想像することはできない」という旨を述べ、人間存在における、身体と比した際の精神の圧倒的優位性を述べた。
しかし実は、デカルトは、人間の精神における、身体からの受動的な作用を否定しているわけではない。
人間の精神は、情念≒欲望を持つ。
そしてデカルトに言わせれば、欲望≒情念とは、精神における受動的作用…すなわち、身体からの影響を受けて生じるものなのだ。例えば、胃袋が空になるという身体的条件から、人の精神には、何かを食べたいという欲望≒情念が生じることになる…というふうに。
さて、ここで、メディアという装置について考えてみたい。メディアという装置…いや、いわゆる装置一般について、僕たちはしばしばそれを、"拡張された身体"としてイメージしはしないだろうか。例えば、僕は車に乗らないのでわからないが、しばしば車の運転手の意識の中では、自分の身体の外延と自分の運転する自動車の外延とが重なり合うと聞く。あるいは、僕らは箸という道具=装置を、あたかも自らの手指のように器用に用いる。そう。
しばしば装置とは、自己にとっての身体の延長なのだ。
とするならば、メディアという装置もまた、僕たちにとって"拡張された身体"となり得、したがって、新たなメディアの誕生は、僕らにとって、新たな身体の獲得に等しいということになるわけだ。
で、あるならば…。
仮に僕たちの精神における情念≒欲望というものが身体からの影響によって生じる受動的な作用であり、そしてメディアという装置が僕たちにとっての"拡張された身体"であるならば、僕たちは、
"拡張された身体=メディアという装置"からの影響により、情念≒欲望という精神の作用を受動的に持つことになる
とも言えるだろう。誰かしらが新しいメディアを用いて悪事や犯罪を為したとき、その悪事や犯罪は、個人に由来するというよりも、新しいメディアの誕生により惹起されたものなのだ…と。
もちろん、それがすべてではないだろうが。