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「純ジャパ」という言葉について

「純ジャパ」という言葉がカジュアルに使われているのをしばしば目にします。文脈から察するに悪意はまったくないのだと思われます。でも、「純」は「不純」の対概念であり、使用者にそうした意図がなくとも、日本人という集団の中に〈純粋な日本人/不純な日本人〉という階層性を設けることに繋がってしまう。
言葉は、使用者の意図にかかわらず、〈上位/下位〉という権力構造を生産、あるいは反復再生産する装置になりえます。例えば、「これであなたもパッチリふたえに!」という単なる広告の文言からも、〈二重瞼=美/一重瞼=醜〉という暴力的な位階性が生じる危険がある。そして、そうした言説にあふれる社会に暮らせば、人は往々にして、その虚妄に過ぎない価値観を、あたかも自明のものであるかのように信じて内面化してしまうことでしょう。もちろん内面化してしまうと、それが「一重瞼」の人だった場合、激しい自己否定に苦しむことになるのは想像に難くありません。言葉のイデオロギー性とは、政治信条や主義主張を意図して込めた言葉についてだけ言うわけではありません。さしたる意図もなしに発された言葉が作り出す、日常に遍在する権力というものもまた、言葉のイデオロギー性を考えるうえで、とても大切な観点となるのです。

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