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眠い…ゆえに哲学あり…?

近代哲学の父、ルネ・デカルトは、例えば『方法序説』という本のなかに、「我思うゆえに我あり」という有名な言葉を残しました。「我あり」つまり“自己の存在“の根拠を、「我思う」という点に想定したのですね。そして「我思う」は英語で言うと“I think“、すなわち“考える“という精神の働きを言うわけです。つまりデカルトは、“自己の存在“の根拠を、“精神“に置いた。デカルトにおいては、人間という存在の核たるものとして、精神わけても理性という働きが特別視されたというわけですね。
このことは逆に言えば、デカルトは人間存在を〈精神/それ以外のもの〉と分けて考えたということです。そして〈それ以外のもの〉とはすなわち、〈身体〉ということになる。要するにデカルトは、人間を〈精神/身体〉と分節して捉えたのであり、こうした人間観のことを、〈心身二元論〉などと呼ぶわけですね。
もっとも、このような人間の捉え方は別にデカルトや近代哲学の専売特許ではありません。例えば、古代ギリシャの哲学者ソクラテスやその弟子プラトンなども、「人間は、死ぬと魂が汚れた肉体から離れ、清浄な冥界へと赴くことができる」などといった言葉を残していますが、ここにもやはり、〈魂/肉体〉という、デカルトの心身二元論に通じるような認識があるとわかります。

で、ウチの子なんですけど、先日、寝起きのときにさも眠たそうに惚けた顔をしていたので、思わず「起きてる?笑」って聞いてみたんですね。すると、「んー…からだは起きたけど、頭は眠ってる…」と。それでふと、ソクラテスやデカルトの哲学も、必ずしも高尚な思索から生まれたものばかりというわけでなく、こういう素朴な生活実感から生まれてきた言葉もたくさんあったのではないかな…などと思ったんです(*^ω^*)

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