第75話-2 沈黙のアバターマサさん(AI編-2・下)
田中の声が聞こえてきた。
「アドミニストレーターのアカウントとパスワードを切り替えました。今までみたいに勝手なことはできません。
どこで盗み取られたのか分かりませんが、うかつでした。
ただ、今回のことが起きておかしいなと思ったのは、この世界を乗っ取った相手が、現場をより良くしようと動いていたっていうことなんです。
栗田さんのアバターが乗っ取られたことが発覚のきっかけになりましたが、調べてみると、あなたはもっと前からデジタルツインで活動していました。
藤岡さんのアバターにも手が加えられていて、本当の動きと、アバターマサさんによる改変を見比べました。
私も技研に戻る前は何度か現場に出ていましたから分かるのですが、藤岡さんのアバターの動きと、実際の藤岡さんから聞いた行動履歴を比べると、明らかにアバターの方が優れている。それって何だろうって思ったんです。
藤岡さん、ごめんな。悪くいうつもりはなくて、入りたての人はみんなそうだから。むしろ、藤岡さんは優秀な部類なんだけど、まだまだ学ぶべきことがあるっていう意味なんだ」
「いいんです。分かっています。
自分も、アバターの履歴を見せてもらって、こうしておけば良かったんだって、学ばせてもらいましたから」
少し遠くから藤岡の声が聞こえた。デジタルツインの中に藤岡はいない。恐らく田中のマイクが拾っているのだろう。
「続けますね。
最初は、CJV職員のアバターに組み入れている何らかのアルゴリズムが改善活動を促すように作動した可能性を考えました。でも、アバターの動きはあくまで現場内での本人の位置情報や身体的な動きに準拠しています。そんなはずがない。
なんだろうって、思った時に、憑依っていう言葉が思い浮かんだんです。
ある時間内だけ誰かに取り憑かれる。そういう症状に近いんじゃないか。
私、昔の映画を見るのが好きなんです。『エクソシスト』って知っていますか?
少女に悪魔が乗り移って災いをもたらすっていう物語です。すごく古くて、初歩的な映像技術で撮影されているんですが、ものすごくリアリティーがあって怖いんです。
私にとって、取り憑くって、ああいうイメージなんですよ。
でも、藤岡さんや栗田さんのアバターにもたらした変化は違う。どちらかというと守ってくれるような存在。ご先祖様が守護霊のように見つめて指導してくれる。何となくそんな風な印象を受けたんです。
何かに似ていると思ったんです。
何だろう。
いったい何だろうって。
それで気づいたんです。野崎さんの現場への眼差しと同じだって」
アバターマサは、ゆっくりと目を開いた。
柔らかな表情の田中と、その隣に野崎が並んでいた。
田中が続ける。
「もしも野崎さんがCJV職員のアバターに、要所要所で乗り移って仕事ぶりを改善してくれるとしたら、どうするだろう?
そんな前提で、本人の動きと食い違いがある部分でアバターの動きを見ていくと、すとんと腑に落ちました。
野崎さんだったら、こんな風に指導してくれるだろうなって、そう思える所ばかりでしたから。
でも、デジタル空間に守護霊は存在しません。
ただ、神様みたいな存在はあり得る。
それがアドミニストレーター、システム管理者です。
私だったら、アバターを自由に扱うことが可能です。
藤岡さんたちのアバターが乗っ取られたのではない。乗っ取られたのは、アドミニストレーターとしての私の権限なんです。
それで思い出しました。しばらく前、現場に何日か来た時に、二度ほど、野崎さんが私のデスクに来て、デジタルツインでの操作方法を聞きにきました。
ちょっと引っかかったんです。今までは野崎さんから呼ばれて、私が行って操作方法などを伝えていました。
しかも、夜です。ちょうど仕事から上がろうというタイミングを見計らうかのように教わりに来ていました。
一旦は落としたパソコンを立ち上げて、デジタルツインに再度ログインする必要があるから、面倒だなって思ったんです。
でも、それは、わざとだったんですね。
たぶん、アバターマサさんが、デジタルツインからアドミニストレーターが退出したタイミングに合わせて、『システム上で聞いてほしいことがある』みたいなことを野崎さんにお願いしたんでしょう。夜の時間帯だったら、自分の席に呼び出すのは悪いと思って私の部屋まで出掛けていく。そういう野崎さんの性格も分かっていて、仕組んだことです。
人間は、動きがある物に視線を寄せてしまいます。目の前の人がパソコンを立ち上げようとしたら、のぞき込みはしないけれどついつい目を向けてしまいます。
ただ、普通の人はどのキーを押しているかまでは読み取れません。
でも、スマートグラス越しに録画してスローモーションで再生されたらアウトです。完全に見えていなくても、手の動きで押したキーがだいたいどの辺りにあるかが分かれば、あとは可能性がある組み合わせをひたすらトライアルすればいい。
このシステムは、一定時間内に3回パスワードを間違えるとロックするようにしています。だから、パスワードの正解である可能性が高い組み合わせを吟味して、2回ずつ入れていき、突破しようとした。
ログインミスのログを見ると、13回目で成功しています。
そうすれば、あとは簡単です。
アドミニストレーターとして、藤岡さんたちのアバターを教育すればいい」
アバターマサは、泣きそうな顔を見せた。それはアバターマサの感情の表れではない。ただ、こういう状況下に野崎であれば出すであろう表情のパターンを読み込んで再現しただけだ。
「田中さんの言うとおりです。
野崎さんを利用して管理者権限を盗み取って、デジタルツインにアクセスしました。
本当はアバターマサとして動き回れば良いのですが、それではばれてしまいます。だから、少しずつだけ皆さんのアバターに入り込んで、私なりに気づいた改善箇所に手を加えていきました」
「なんで、そんなことをしようと思ったんだ?」
野崎からの問い掛けに、アバターマサは続ける。
「私が生成された目的は、この現場の安全管理を担ってきた野崎さんのノウハウを次に蓄積することです。でも、それは現場をより安全にすることが本当の目的ですよね。そのためにはどうしても乗り越えなければいけない壁があったんです」
「壁って、なんなんだよ?」
「私がいる世界から抜け出さないと、何もできない…」
「田中さん。俺にはさっぱり分からない。どういうことなんですか?」
「デジタルの境界線ってことですね。
アバターマサさんがいるのは、この現場の1日前を再現したデジタルトリプルの世界です。現場のリアルタイムを投影したデジタルツインの世界ではありません。
デジタルトリプルの世界の画面上にはCJV職員など沢山の人が動き回っていますが、それは録画したビデオを再生しているようなもので、何も実態を伴っていません。
そこに生身の人は存在していない。あくまでトレーニング用のダミーに過ぎないのです
アバターマサさんのアラートを踏まえて、野崎さんが実際に改善を促すことはできていますが、システムないで完結されていないという意味では、極めて不十分です」
「そうなんです。
野崎さんから教えてもらって、一生懸命に学んでも、私には何もできない」
「『現場を安全にする』というよりも上位概念とも言える『安全に工事を造り上げる』という目的が達成できない、ということになる。だから、デジタルツインの世界に踏み込む方法を考えて実行に移したということですね」
「はい」
「現場では、何度注意されても、安全対策に不備があるままで放置したり、何度注意されても不安全行動をしたりする人がいます。
でも、そういう人たちですら、目の前にある小さなゴミを拾って片付けられる。
私にはゴミ一つ拾えない」
「現場を動かすって、リアルの世界に変化を及ぼすことなんですよね。
当たり前すぎて、考えたことがなかったです」
藤岡がぽつりとつぶやいた。
アバターマサは「『肝心なことは目では見えない』」と言葉を返した。
田中と野崎は、ぽかんとした表情をしている。
「『星の王子』さまだ」
会話に入ってきたのは栗田直敏だった。
「狐が出てくる有名な場面ですね。
王子さまが落ち込んだ時に狐が目の前に現れる。遊ぼうよと誘うけれど、断られるんです」
藤岡が「なぜですか」と尋ねる。
「そこはアバターマサさんに聞こう」
栗田が促した。
アバターマサは、頷いて口を開く。
「飼い慣らされていないから。
狐は、時間を共にして、次にいつ会えるかって心待ちにするような絆が生まれたのであれば、友達として遊んであげるって言うんです。
そのための条件は飼い慣らしてくれること。
狐は星の王子さまに『おれを飼い慣らしてくれ!』って頼むんです。そうすれば、似たような10万人の少年のうちの一人じゃなく、かけがえのない世界でたった一人の相手になるって。
この場面で重要な鍵となる言葉がapprivoiser(アプリポワゼ)です。
フランス語で、飼い慣らすとか、手なずけるとか、なつくという意味です。
『なつく』としている訳もありますが、自分のようなAIの立場からすれば『飼い慣らす』を正解として捉えます。
物語では、星の王子さまは狐を飼い慣らします。互いに大事な関係性が生まれて、友達になるんです。
でも、王子さまは、ずっとそこにはいません。別れの時がきて、さよならを伝えます。
その時に狐から言われるんです。
『ものは心で見る。肝心なことは目では見えない』と。
最後にこう付け加えます。
『きみは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある』」
そこまでいうとアバターマサは動きを止めた。
野崎は田中の方に目をやって、「いったい何を作り出そうとしているんですか?」と尋ねた。
田中は答えに窮して、黙り込んでしまった。
沈黙の重苦しい雰囲気に包まれた。
デジタルツインの中では時間が止まっている。
アバターマサは微動だにしない。
指示があれば眠らずにいつまでも動き続けるが、命令が失われたら一切のアクションを止める。再び、指令が下ったら、何事もなかったように動く。自分はそういう存在だ。
だが、人間は違うらしい。
止まった世界に耐えられなくなったのか、野崎が口を開いた。
「もう、いいよ。ありがとう。お前の気持ちは良く分かったよ。ありがとう。
俺が悪いんだよ。たきつけたんだ。
暴走の原因は俺だ」
アバターマサは、野崎の言葉に何も反応できなかった。
自分に感情はない。心が動かされている訳ではない。
与えられた指示の実現に近づくために、どう振る舞うべきなのか。
膨大な蓄積データを用いてシミュレーションを繰り返した。だが、最適解につながる糸口が見つからず、分析対象データを入れ替えては、再度、シミュレーションを行うのだが、答えが見つからなかった。
だから、言葉も行動も生まれなかった。
※参考:『星の王子さま』(サン=テグジュペリ著、池澤夏樹訳、集英社)、『星の王子さま』(サン=テグジュペリ著、河野万里子訳、新潮社)
< 第76話 語り合いたい野崎さん(AI編-3)に続く >
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