第66話 選択の洋一郎さん
It's not just my problem!
It's just your problem!
これは私だけの問題なんかじゃない!!
あなたの目の前に迫っている現実の問題なのよ!!
叫ぶようにジュリアが声を荒げたところで、大きな爆発音が鳴り響き、通信が途絶えた。パソコン画面の中央が真っ暗になった。垣田洋一郎は、涙があふれそうになり、沈痛な面持ちのまま目を閉じた。
「ジュリア!! ジュリア!!」
妻の垣田エリーが泣き崩れた。
The world hasn't changed.
世界は何も変わっていない。
ジュリアが呟いた言葉が、洋一郎の頭の中を駆け巡っていた。
ジュリアの母国が、隣国の大国から侵攻された。
軍事的な緊張が高まっていたのは事実だったが、全土に渡って制圧に動くとは思っていなかった。ジュリアが住んでいる首都の上空を、隣国の戦闘機が飛び交い、地上戦が繰り広げられている様子が報じられていた。
軍事侵攻が表明されてから数日というスピードで、洋一郎の国の1.5倍もの広さの国が制圧されようとしている。
歴史を振り返れば、何度も繰り返されてきたことではある。自分の国も、かつて暴挙に及んだ過去がある。
だが、世界の大国が核兵器を配備している中で、世界大戦のような事態がいったん生じれば、互いに壊滅的な被害を受ける状況に陥りかねない。
地域紛争が起きることはやむを得ないが、少なくとも大国は引き金に指を掛けることはできない。
それこそが前世紀の大戦以降の大きなゲームチェンジ。
洋一郎は、そう思っていた。
そんなのは、ただの空虚な幻想に過ぎなかった。
覇権を得るために強者が力で制圧するというルールは、今も脈々と続いていたのだ。自分の認識の甘さを思い知った。この時代を生きる一人として情けなかった。
ジュリアは、妻のエリーにとって最も大事なパートナーの一人だ。
エリーは、BIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)と呼ばれる設計システムでデータを統合しながら、オンライン上で世界中の建築設計者と連携して、建築設計を仕上げている。「オープンアーキテクト」と呼ばれる枠組みで、一流の建築設計者が独立して世界で仕事をしていく際のデファクトスタンダードになりつつある。
技術者のネットワークは、多額の賞金が懸けられたBIMによる設計コンテストで上位を維持することで広がってきた。このコンテストの枠組みを作ったのが、自身も建築設計者であった洋一郎だった。
もともとは、時差が異なる地域の人が連携して仕事を進めることで、より合理的かつスピーディーに建築設計を進められると考えたことがきっかけだった。高速の通信網と強固なネットワークセキュリティーの実現で、どんなに距離が離れていても、同じオフィスに机を並べているように仕事ができた。最も重要なことは、隣に座ってもらう優れたパートナーと出会うことだった。
優秀な人同士が互いを選ぶためには、擬似的な仕事の場で競い合うことが最も効果的だと思い立ち、クラウドファンディングで資金調達してコンテストを立ち上げた。徐々に参加者が増え、ギャラリーが増加し、広告主も集まってきた。今では建築設計界の世界的なイベントの一つになった。
そこでエリーが意気投合したのがジュリアだった。ジュリアは「コンピュテーショナルデザイン」と呼ばれるコンピューター自動設計が得意で、一見するとありふれたようなデザインの中に、画家が入れるサインのような特徴的なワンポイントを、容易に組み込むことができた。使いやすさや施工性を追求した合理的な建築に、一筋の芸術性をさらりと差し込む。そうすることで、大量生産で作られたインダストリアルデザイン(工業デザイン)のプロダクトがアートに昇華するようなアプローチを可能にしていた。
エリーは、世界中の優秀な建築設計者と仕事をしていたが、必ず皆で現地に赴き、クライアントや地域の人と交流することを大事にしていた。
コストも時間もかかる。多くの仕事をこなす上では必ずしも合理的ではない。だが、建築は相手の人生や組織の行く末を左右する重要な基礎になるという思いから、相手を知る労を惜しまず、相手から理解してもらえるよう努力していた。
そうした姿勢に最も共感してくれたのがジュリアだった。
エリーは、ジュリアらとともに、あの災害で大きな被害を受けた海辺の街に建設中の複合施設の設計を手掛けていた。一旦は仕上がったのだが、被災地を取り巻く環境が変化する中で、建設途中での設計変更を余儀なくされた。各メンバーとも既に別のプロジェクトへ軸足を移した後だったため、断られてもやむを得ない状況があり、難色を示す顔が画面に散らばった。
そうした雰囲気を柔らかく溶かしたのが、ジュリアの「トヨトミユキはどうしてる?」という一言だった。
復興した街での暮らしを待ちわびる市川トヨと吉沢トミ、藤森ユキという3人の名前だ。祖母のような世代の彼女たちは、戦禍と災禍を経験し、それでもなお前向きに生き抜いてきた。
3人の笑顔を見たい。
単純だが、とても大事な欲求だった。
ジュリアの一言が、遠隔からオンラインで参加しているメンバー全員の気持ちを一つにした。
洋一郎は、エリーの隣でやり取りを見ていて、「ジュリアらしいな」と笑みがこぼれた。
洋一郎がジュリアと直接会ったことがあるのは、たった2回だ。
最初は、経済成長著しい近くの大国での開発プロジェクトに、エリーが参画した時だった。そのメンバーの一人がジュリアだった。大規模案件で人脈が広がるだろうと洋一郎も一緒に出掛けた。
ジュリアは、理知的であると同時に、瞬時に激高して相手に決断を迫るような交渉術を持っていた。クライアントが、開発計画地から移転を迫られる住民らを見下すような発言をしたことに、即座にかみついた。
「怨嗟を生み出すようなプロジェクトに荷担することはできない。
あなたには影響を与えないかもしれない。だが、あなたの子どもの世代が主役になる社会に、静かなる地雷を埋めるような行為だ。
それはクライアントと、クライアントを取り巻く環境をより良くしていくという建築家に求められる責務に反する。
責務に反する仕事をするような建築家は、社会的信用を失い、グローバルで仕事ができなくなる。そうした時代が目の前まで来ている。
これは私だけの意思ではない。世界の意思だ。世界を牽引すべきあなたの国としてふさわしい振る舞いを考えてほしい」
何のために働くのか。
もちろん、生活のためだ。
でも、目の前の対価さえあれば、自分にとっての良い暮らしが維持できる訳ではない。
社会の中では、物やサービスとともに、様々な意思が循環する。憤りが増長するようでは、世界は破綻へと向かう。だから、一人のプロとして、目の前の仕事への態度を明確にする。それが、ジュリアの生き様だった。
あの一件で、エリーはジュリアにぞっこんになった。
エリーにとってジュリアは、仕事の大事なパートナーであり、ライバルであり、親友だった。
今回の復興プロジェクトを手掛ける前に、ジュリアはこの国に来て、被災地を見て回り、「力を貸したい」と言って帰って行った。そして、母国から設計業務を手掛けていた。
感染症の問題がなければ、途中段階でもう一度、被災地でミーティングを行うはずだった。パンデミックで移動制限が生じて、オンラインだけのやり取りのまま、設計変更の作業も終えていた。
皆が、別々のプロジェクトで仕事に励んでいた。
そんな折に、ジュリアの母国が隣国から侵攻されたニュースが世界中を駆け巡った。
「次は完成した後ね。トヨトミユキと会うのが楽しみだわ」と笑顔で話していたのが、遠い昔のことのように思えた。
エリーと洋一郎は、設計業務に使っている通信アプリでジュリアにコンタクトを試みた。世界中でサイバー攻撃の懸念が高まっているとの報道もある。セキュリティーの高いルートを使うべきだと考えた。
ジュリアは焦燥しきっていた。
街中で鳴り響いているサイレンの音が後ろに聞こえる。
爆撃音を何度も聞いたという。足が不自由な母親を連れて逃げようとしたが、鉄道も高速バスもいっぱいで乗車できなかったそうだ。防空壕となっている地下鉄駅も人であふれかえっていて、結局、自分たちの家に戻ってくるほかなかった。
「これは戦争よ。いったい、どうすればいいのか分からない…。助けてほしい…」
ジュリアの悲痛な叫びに、エリーも洋一郎も言葉を詰まらせた。
ニュースでは、南部の都市の制圧や国際社会による制裁など刻一刻と様々な情報が飛び交っていた。
洋一郎は、うなだれたまま、言葉を絞り出した。
「力になれずに申し訳ない」
その瞬間だった。ジュリアの目が変わった。
「力になれない?
ヨーイチロー、今、何て言った?
できることがない?」
心の奥底から怒りのマグマが噴火するかのような声色だった。
「冗談じゃない。馬鹿にしてるの?
ふざけないで! 無責任なことを言わないで!
あなたは自分の意志で自分の国の中を動くことができる。意見を発信することができる。伝えることができる。
そうじゃないの?
私たちは、それができなくなりつつある。でも、あなたたちはできる。
声を上げることよ。しっかりと反対することよ。
何も言わないということは、あの指導者に賛同していることと同じなのよ。
この星には80億人に近い人が生きているわ。
1000分の1が、声を出して『許さない』と叫べば、あの国の人たちに必ず届く。
100分の1が、自国の国会とあの国の大使館の前で憤りを表明すれば、あの指導者の周りにいる人たちに絶対に届く。
10人に1人が動けば、あの指導者の意志は変わる。変えざるを得ない。
そう思わない?
人類の歴史上、成功したことはないかもしれないわ。
でも、できないと決まったわけじゃない。
やったことがないだけよ。
今こそ、今だからこそ、変えるの。
変えられないと、世界は軍事的な圧力でしか動かない時代に絶対に戻る。
これは私だけの問題なんかじゃない!!
あなたの目の前に迫っている現実の問題なのよ!!」
烈火のごとくジュリアが叫ぶと同時に、大きな爆発音がして、通信が途切れた。
真っ暗な画面を前に、エリーが泣きじゃくっていた。
洋一郎は、呆然としながらも、頭を急速に回転させようとしていた。
できることはある。
できることじゃない。やらなければいけないことだ。
まずは、自分が動いてデモに参加して、「戦争反対」と「私は認めない」と表明することだ。
1000人のうちの1人になろう。それが、100人の1人になるように、そして10人の1人になるように自分が動くのだ。
侵攻した国の世論を動かすのだ。
もう一つは、技術者たちへの呼び掛けだ。
洋一郎は、BIM設計コンテストを通じて、世界中に建築設計者のネットワークを構築した。ジュリアの母国にも、侵攻した国にも知人がいる。いずれも超一流の技術者であり、それぞれが一流のクライアントとつながっている。
建築プロジェクトでは、設計者がクライアントのトップと直接やり取りをする場面が多い。当たり前だ。誰だって、自宅や本社や基幹工場を造ることを人任せになどしない。
建築家と呼ばれる域に達した一流の技術者であれば、クライアントにとっての最善へと導くために、しっかりと物を言える。
そして、一流の腕を持っていれば、仕事を選ぶことができる。
既に、人道的に問題あるクライアントの仕事をしていることが明るみに出ると、グローバルに仕事ができなくなる状況が生まれている。今回の侵攻も、当然、そうした範疇に入る。最たる例と言っても過言ではない。
「私は、あなたの国の蛮行に賛同しない。
このままでは、あなたのプロジェクトを手掛けることはできない」
侵攻した国の経済で鍵を握る経営者たちに、そうメッセージを発信するよう皆に呼び掛けるのだ。
本来は、グローバルに展開する企業が率先して動くべきだが、大きな組織になるほど及び腰になる。自分の責任で動ける洋一郎たちのような有機的なネットワークの方が、しなやかに素早く動くことができる。
そう表明することは、各自がグローバルで仕事を続けていくために必要な動きにもなっていくだろう。
既に、侵攻した国の金融機関を、世界の銀行決済の流れから排除しようとする経済制裁が動こうとしている。
そうした流れに呼応するように、建築プロジェクトの流れにもくさびを打つ。
さまざまな人たちが、自分たちができる包囲網を築く。
戦車もミサイルもいらない。兵器ではないもので戦うのだ。
グローバリゼーションは、経済合理性に基づく最適化をもたらしたと同時に格差も生んでおり、大きな問題を抱えている。だが、この星全体を不可分な一つの身体のように連携させたことの新たな意味もあるのではないか。
互いが不可欠な存在になるからこそ、理不尽な立ち振る舞いに対してNOを突きつけられるような非武装の力を持ち得るのではないか。
政治とは異なる地平で民主主義的な力が作用するようになれば、世界はきっと変わる。
もちろん、現時点では夢想や幻想に近い。
今回の侵攻が成功する可能性は否定できない。いやむしろ、その可能性の方が大きいかもしれない。
そうなれば、力がある超大国が強権的に覇権を広げる行為が、これからも正当化されていく。
どちらの世界へ向かうのか。
今まさに、一人一人が選択する岐路に立たされている。そのことを自覚すべきなのだ。
あの大災害がこの国を襲った時、発災から6日後、ジュリアの母国から毛布が届けられた。あの年の夏には、線量計や防護マスクが贈られた。原子力発電所での大きなトラブルを経験した国として、互いの学術交流も進んでいる。
これは、自分たちの問題だ。
できることはある。
態度を明確にすることが、世界を一歩前に動かす。
「世界は変わった」
ジュリアと再会する日に、そう言えるように。
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