人民と臣民

連日日本のニュースを読んでいる(観ている)と、頭がおかしくなりそうになる。色々時勢に関して言いたいことが溜まっているのだが、誰にも需要がなさそうなので具体的な言及はやめておくとして、やっぱり自称アメリカかぶれ(https://note.com/genaktion/n/n0783447a41e4)としては、これら極東社会の問題の本質は「integrityの欠如」にあるのじゃないかと思うより他にない。

integrityという言葉は、おそらく日本語訳はないと思う。よく「誠実さ」や「高潔さ」なんて訳があてはめられるようだが、なんだか意味がちょっと違う。ちなみに、Cambridgeによる定義は以下だ。

The quality of being honest and having strong moral principles that you refuse to change:

変わることなく、誠実であり強い道徳原理を持っている特性

つまり、簡潔に説明すると、integrityとは、単に「誠実である」のでも、「高潔である」のでもなく、己の中の確固たる基準や信念に則り、誠実さや道徳を保っている状態のことを指す。一見誠実に見えようとも、その時々で言うことがコロコロ変わったり、発言と行動が伴っていないと言う状態は、その時々ではhonestであったり、moralがあったりするかもしれないが、少なくともintegrityがあるとは言えないし、仮に自分の中にintegrityがあるとしたら、自分との折り合いがつかないだろう。

このintegrityという言葉は、例えばアメリカの高校生ぐらいなら授業のディスカッションで議論されるだろうし、会社に入社すれば、会社のpolicies(方針)、regulations(規則)、rules(規定)と同じく、まず最初に叩き込まれる概念である。わかりやすい例を挙げると、

「貴方は上司に"ビジネス上仕方がないから"と、不正取引になりそうなことを提案された。上司の指示なので断れないし、黙っていればばれないだろう。コストが浮く分、顧客も喜んでくれる。あなたはこれが違法だと分かっている。さて、やりますか?」

という状況で、貴方にintegrityがあるとしたら、貴方は「やる」という選択肢は選べないだろう。なぜなら、仮に一時的に上記の不正取引が会社の経済的利益をもたらしたとしても、そのことによってビジネス機会を失するであろう競争相手=公共の利益や、万が一の不正取引の発覚によって会社が被る不利益を踏まえた場合、この行動はintegrityがあるとは言えない。また、たとえこのことがばれなかったとしても、自分の中で不正をおこなってしまった葛藤は残るだろう。

自分の中の道徳原則、基準に沿って考えてみたときに、integrityがあるかどうか。これは利益相反や不正競争のケーススタディで頻出するので、少なくとも米国系などの企業に勤めている者や、留学経験のある者なら概念として理解していると思うが、そういった機会がなく、日本社会のみで育った場合には、そもそも肌感覚として伝わらないかもしれない。

もう一つ例を挙げる。アメリカ合衆国は建国から奴隷制の歴史と共にあった。19世紀に合衆国憲法修正第13条によって制度上は廃止となったものの、20世紀の公民権法制定まで、かつての奴隷達は選挙権すら与えられなかった。そして、現在も彼らは社会構造的な貧富、福祉、教育の格差に苦しめられている。

しかしその一方、当時の奴隷主や領主たちは、奴隷を所有することに対して葛藤はあったのだろうか。聖書的な考え方に則るなら、彼らには黄金律、つまり「各人に各人のものを」という意識はあっただろう。つまり、”人ならざるもの以外には平等”があり、彼らが奴隷を所有することは彼ら自由人の権利であったということだ。よって、彼らにとっては奴隷を所有することは基本的人権であり、彼らなりの正義だったといえる。

しかし、自由人の中には「奴隷とされる人たちは本当に自分たち自由人とは異なるのだろうか?」「聖書の教えを踏まえたら、本当に奴隷制は正しいのだろうか?」と考える者たちもいた。

彼らは自分たちのintegrityを持っていたし、仮に彼ら自由人たちの中に「奴隷制は自分の誕生の前からあった基本的人権とされていた。しかし、これは己の規範と照らし合わせて、容認できない。自分が社会に合わせて変わるのではなく、この制度を容認する社会の方を変えないといけない」というintegrityがなかったら、奴隷制は今も変わらず残っていただろう。

アメリカ社会にもいまだに多くの問題が多くあり、アメリカが本音と建前を使い分けることも多々ある。それでも、このintegrityという概念の基本は、少なくとも独立戦争、奴隷制、南北戦争、といった人権の獲得競争によって更に醸成されてきたといえるし、米国社会で高い教養とモラルを兼ね揃えた人材になる上では、欠かすことのできない資質であるだろう。

だから政治家も行政も、社会の問題は山のようにあったとしても、己の高いモラルを示す上での判断の指針となる「数字」や「情報」は公開するし、発言の整合性、integrityの有無によって自身が人々に判断されることを分かっている。現在進行中の課題、問題について情報を公開することが、「人々の知る権利」、自由人=citizenの基本的権利であることを理解している。また人々も、公共の権利に則り、自分の権利が制限されることがあっても、integrityがある者には協力を惜しまない。

ところがこのintegrityという重要な概念は、日本語には適応する語が存在していないし、そもそも概念として常用されていない。どうして明治期にこの概念が翻訳されなかったのか、いまだによく理解できないでいる。

そもそも翻訳という過程も多いに問題がある。例えば、上述した訳語の中で「南北戦争」という言葉があったが、これはそもそも"Civil War"という語を意訳しており、アメリカ人は誰も1861年から1865年にかけて行われた戦争を「南北の戦争」と呼んではいない。"Civil War"はcivil=自由人による戦い、つまり「自由人による内戦」であり、「アメリカ人同士の権利獲得闘争」であったというわけだ。

"Civil War"を「南北戦争」と訳してしまったがために、同じく権利獲得闘争である"Civil Rights Movement"との連続性が本邦では失われてしまったといえるし、そもそも口語として馴染みのない「公民権運動」という訳語から、どこまで「自由人の権利獲得」という本義が伝わっているのか、個人的には甚だ疑問である。

civilと原義を同じくするcitizenという語も概念としては「翻訳」がうまくできていないように映る。citizenはしばし「市民」や「公民」などと訳されるが、「市民」という語だと、日本語では「市井の人」「どこか特定の市に住んでいる人」という多義的な意味を連想し、「自由人」という「当該社会の構成員として権利を有する人」という意味が薄れてしまう。「公民」という訳語も、中華圏では広く使用されているようだが、「公」という概念が日本の場合は「奉公」や「公家」など、「お上」を連想するような言葉となってしまっていて、citizenという言葉がどこまで表現できているのか、いまいちよくわからない。また、citizenの訳語として「国民」を用いるのは最悪だろう。「国」という概念を内包するのは原義としておかしい。

私個人としては、citizenの訳語は「人民」が良いかと思うのだが、広く共産主義の文脈で使用された言葉なのと、本来広く「人々」を意味するpeopleの訳語としても使用されているので、差別化する上ではあまりそぐわないかもしれないが、少なくとも「市民」よりは良いのではないかと思っている。こういった翻訳の過程で、本来の意味がぼけてしまうとしたら、もしかしたらintegrityも、無理に訳さなくてよかったのかもしれないな。

逆に日本独自の概念で面白いのは「臣民」という語だ。「臣民」は領主に仕える人々を指しており、封建制の時代より続いている言葉のようで、現代では主に、権力に従順な人々を揶揄して使われている。英語でこの言葉に対応する語はなく、割合近しい意味としてはsubjectという語が存在する。これは文字通り「モノ」を指している汎用語だが、領主が下々の者へ言及するときに、"My subjects are.."といった形で使用され、通常誰かが自称する言葉ではない。流石に封建領内でも人々が自分から自分を"subject扱い"することはないということだ。ところが、日本では誰かを言及する上で、「臣民」という言葉を用いる。この感覚の違いは何だろうか。"Civil Rights"=「自由人としての権利」が曖昧模糊になっていることとも繋がってくるような気がしていて、非常に興味深い。

「ジンミン」と「シンミン」、清濁一字違いで大違い。とりあえず私は「臣民」ではなく「人民」でありたいと思う。

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