「自分の仕事に意味を感じない」と思ってしまう若者に、入社9年目の僕が言いたいこと。

 人は1日に1万弱の判断をしている、と何かの本で読んだことがある。朝起きて会社に行き、仕事をして昼飯を食べ、同僚と酒を飲み、家に帰って布団に潜り込むまでに1万弱。ふつうの1日の中で、僕がそんなに大量の判断をしているとは到底思えないが、専門家によると、人は皆それをしているのだという。

 改めて考えてみたが、

「これは判断である。今、俺は判断をしている」

 と意識するほど大きな「判断」は、人生の中でも数えるほどしかない気がする。

 とりわけ、僕たちの心の中で大きな比重を占める判断のひとつが、仕事に関する判断だ。

 というか、仕事はそれ自体、もはや「判断」である。

 僕が他社の編集者仲間と飲んだ居酒屋で1万円の領収書を貰うか貰わないかを決めることから、大経営者が1兆円でM&Aをする決断を下すことまで、仕事はすべてが判断の連続だ。

 さらに言うならば、サラリーマンの場合、僕を含むすべての人は、なにがしかの判断をしてその会社に入り、日々の仕事に従事している。

 ところで、

 「仕事が嫌だ」

 と言う若者は、いつの時代、どこにでも必ずいる。

「今の仕事が嫌で嫌でたまらない」「なぜなら自分のやっている仕事に意味がないと思うから」「つまりこれは自分がやるべき仕事ではない」「だから辞めたい」と言っている人を、僕はわずか10年足らずの社会人生活で、何人も見てきた(ほとんどが入社5年未満だった)。

 これは、別に悪いことじゃない。どう判断しようとその人の勝手であり、他人がとやかく口を出すことではない。

 が、敢えてひとつだけ言っておきたい。若者が「この仕事は自分にとって意味がない」と決め付けてしまうのは、非常にもったいないことだ、と。

 あらかじめ断っておくが、職場における人間関係が酷い場合は、話が別だ。上司がパワハラ、セクハラをしてくる。同僚が無視したり、いじめをしてくる。理不尽なまでに自分ひとりだけに仕事を押し付けてくる。そんな最低な職場であれば、すぐに辞めてしまったほうがいい。

 しかし、仮に人間関係が良好でまともな職場にいて、「自分に与えられた仕事」に不満を感じているだけならば、早々に「これは自分のやるべき仕事ではない」「意味がない」と判断してしまうのは、かなりもったいない。

 僕は、自分自身の経験から、強くそう思う。

 若者が、「この仕事は自分にとってなんの意味もない」と判断する根拠の多くは、これまでの人生で培われた自分自身の価値観や、正義感なのだろう。

 だが、わずか20数年で培われた若者の価値観や正義感で、与えられた仕事の意味や意義を判断できるのだろうか。疑問である。

 僕は今31歳で、もはや若者でもなくなりつつあるが、未だに自分の価値観に絶対的な自信はない。自分にとって意味があるか、ないかが判断できない事象が今もたくさんある。だから、「未知なるもの」に遭遇したら、とりあえず「食わず嫌い」しないで、ちょっと触ってみようと心掛けている。

 今だから偉そうなことを言っているが、振り返ると、社会人になりたての頃はそんなことは考えたこともなかった。仕事の意味などほとんど理解しないまま、目の前の与えられた仕事をしていた気がする。

 しかし今、心から思う。かえってそれが良かった。何も考えず「無の状態」でめちゃくちゃに仕事をしていたから、今の自分がいる。

 僕が今の勤務先である出版社に新卒で入ったのは、3・11直後の2011年4月。週刊誌の編集部に配属された。これまでの人生で、週刊誌など、ほとんど読んだことはなかった。

 入社の日、翌日から1人で被災地への出張を命じられた。約1週間で帰って来ると、翌週からはとにかく現場に送り込まれた。政治家や経営者の自宅の前で「夜討ち・朝駆け」をしたり、殺人事件の現場近くで地取り(聞き込み取材)をしたり、福島の海で魚を釣って捌いて放射能を測定したり、ある交通事故の目撃者を探して北海道の高速沿いの民家を一軒一軒訪ねて回ったこともあった。

 かと思えば、先輩記者の取材した4時間のテープを徹夜して文字に起こしたり、朝寝ている時にデスクに電話で叩き起こされて、「今から沖縄に行って」と命じられたこともある。ある時には、名刺を切った途端、「週刊誌? そんな仕事をしてお前は恥ずかしくないのか!」と面罵されたこともあった。

 少し前まで大学生だった僕にとって、初めての職場で与えられた仕事は「???」の連続だった。

 「自分はこんな仕事をやるために出版社に入ったんじゃない!」と言って異動していった先輩もいたという。しかし、当時の僕は、やっていることに意味があるとか、意味がないとか、好きとか嫌いとか、それを判断する材料さえ持っていなかった。だから、「無」の状態になって、ただひたすら目の前の仕事をしまくっていた。「何か将来に生きる技術を習得しよう」とか「スキルを身につけよう」とか、そんなことを考える余裕もなかった。そんなこんなで、あっという間に丸4年が過ぎて、月刊誌の編集部に異動した。

 会社や上司の言いなりになってるだけの単なるアホじゃないか、と思う人もいると思う。仕事に縛りつけられている社畜だったんじゃないか、と言われるかもしれない。あなたね、もっと自分の思い通りの自由な働き方はあったんじゃないの、と。

 でも、僕はあえて問いたい。

 自分の価値観で「嫌だ」と感じる仕事を拒否して、自分の価値観で「好きだ」と思う仕事だけ選んでやっていれば、それは「自由な働き方」なのか?

 それは違うと断言できる。

 なぜなら、あれから9年経った、今の僕が自由に仕事ができているからだ。自由な発想で、やりたい仕事ができている。

 その最大の理由は、当時は特に意味を感じていなかった週刊誌の仕事が、編集者としての「自分の幅」を広げてくれたからだ。月刊誌に異動して、より編集者としての色彩が強い仕事を始めるようになり、あの時の仕事の意味にようやく気がついたのだ。

 殺人事件の現場も、アンダーグラウンドな世界も、永田町の噂話も、韓国の政治も、入社したばかりの22歳だった僕は全く興味がなかった。度胸がなかった僕が「夜討ち・朝駆け」「地取り」を繰り返して大抵のことは耐えられるようになったし、他人に怒鳴られても気にならないくらい強いメンタルも手に入れた。大量の文字起こしをしたから、タイピングが速くなった。週刊誌の原稿を書いて、文章の基本も学んだ。そして、ノンフィクションの面白さをもっと深く知ることができたし、幸いにも多くの優れた書き手の皆さんと知り合うこともできた。

 もし、と考えてしまう。

 新入社員だった頃、「こんな仕事は自分にとって意味がないからやりたくない」と判断してしまい、与えられた週刊誌の仕事を拒否していたら、今の僕はどうなっていただろうか。果たして、今よりも自由に働けていただろうか。答えは言うまでもない。

◆◆◆

 最後にひとつ補足する。

 確かに、週刊誌の仕事は、振り返ってみても、めちゃくちゃだった。今、体力的に同じことができるかは分からない。

 だけど、同じ時期にあの編集部で一緒に働いていた人と話していて感じるのは、大変だった仕事ほど、時が経つほどに楽しい思い出に変わっていくということだ。同業の先輩たちを見ていても、皆、何度も何度も(よく飽きないなと思うくらい)同じ話をしている。僕もそうだ。結局、みんなそうだ。

 ビジネスで成功して大金持ちになれなくても、酒を飲みながら昔の大変だった仕事を仲間と語り合うだけで、人は結構幸せになれるのである。


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