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マルチプレイゲームの黎明期/Unreal Tournament
前回からの続き。
マルチプレイというものがいつできたのかはわからないが、ネット回線速度の向上などから盛んになっていったのは90年台終わり頃だったと思う。
前回、紹介したUnrealからシングルを除きマルチプレイに特化したゲーム『Unreal Tournament』(以下UT)がリリースされたのが1999年。
このころはライバルのQuakeも『Quake III: Arena』という、同じくマルチプレイに特化したFPSをリリースしていた。
そして、その2大政党に割って入ってきたのが、『Half-Life』のMODとして登場した、かの『Counter Strike』である。CSについても書きたいことはあるが、これだけでそうとうなボリュームになってしまうので、また次の機会に。
このころ、サーバーというものは、有志がたてるのが普通だった。
サーバープログラムは無償で公開されており、誰でもたてることができた。プレイヤー全員分をメーカーではカバーしきれないので、ユーザーに頼っていたわけだ。
公式のサーバーというのは、あったのかどうかも知らないが、もしあってもお膝元のアメリカだけだろうし、我々辺境のプレイヤーには関係のないことだった。
UTがリリースされ、まず驚いたのは日本のサーバーが存在したことだった。あれはいったい、誰が運営してくれていたのだろう。感謝してもしきれない。ようやくまともなPingでプレイできるようになったのだ!
当然だが、日本のプレイヤーは全員、日本のサーバーに集まった。
マルチプレイのおもしろさにハマる
ゲームは、人間と遊ぶほうが、断然おもしろい。
人間は、奇跡のようなスーパープレイもするが、とんでもない凡ミスもする。
だれも思いつかなかったような、奇妙なプレイをすることもできる。
最初は通用していた戦略が、次第に対策され通用しなくなり、また新たな戦略が生まれ…こうして遊ぶたびに新たな楽しさが生まれるというのが、マルチプレイの素晴らしさであろう。
これがAIで再現できるようになったとき、マルチプレイは終わるのかもしれない。
マルチプレイの楽しさを知った筆者は、日常生活に支障をきたすほどのめり込んでいった。
クランの誕生
日本人プレイヤーがあつまり、一緒にプレイする。そうして日本人同士のつながりも強くなっていった。
そうして生まれていったのがクランというものだった。
別に、チームとかグループだとか言っても良いと思うのだが、海外ではそう呼称するのが一般的だったので、それに倣ったかたちだ。
UT界では最古から存在し、もっとも多くのプレイヤーが所属していたのがUnreal Japan、略称UNJである。
そこから分裂していったクランも多数あったと思う。
代表的なのが、UNJのトッププレイヤーたちが立ち上げたGod Like Killer、略称GLKであろう。ちなみに、現LFS 池袋社長"kinta"こと長縄実(ながなわみのる)氏はここに所属していた。
あとはUNJについで人数の多かったJACあたりが主要なクランだった。
出会いとIRC
筆者はそれらに入りたいとは思っていたのだが、すでに出来上がっているところに、入れて~と、入っていけない性分であったので、独自に立ち上げることにした。リア友たちと結成した、SAG(当時、住んでいた相模原の略)というクランである。
ちなみに、当時の筆者は洋ゲーへの憧れをこじらせていたためATARIという名前で遊んでいた。後にATARIブランドが復活したため、TATARIに改名。さらに近年、タタリはちょっと縁起がわるいということで今の名前にしたのである。
お前の話はどうでも良いって?スマヌ!
我々と同じような理由だったかはしらないが、同様な泡沫クランもいくつか存在した。思い出せるところではNAD、BJCB、BSD、EDD、RA、PcF、ATC、PUMP、JIS、HMM…他にもあったともうが、なにぶん古い話なので思い出せない。
こう書くと、かなりのプレイヤー数がいると思われるかもしれないが、実際、日本人のUTプレイヤーは200人もいなかったのでは無いか?ある程度の頻度でプレイしている人はみな顔見知り、という状態であった。
SAGは集まりが悪く、クランと言っても名ばかりの存在であったが、たまに集まって遊んでいるときに出会ったのが、同じく泡沫のDDTというクランだった。
DDTもリア友で結成させたクランだったようだが、やはり我々同様アクティブ率は低く、毎日のようにインしていたのは344(さしし)とNotman(のっとまん)くらいであった。
この二人は我々よりはるかに上手く、ボッコボコにやられたのだが、に驚いたことにチャットでフレンドリーに話しかけてきてくれたのだ。
この二人から教わったのが、IRC(インターネット・リレー・チャット)である。
SNSなんてものが存在しない時代、プレイヤー同士の交流はIRCがメインだった。
人と接する機会がほぼなかった筆者だが、IRCを知ったことにより、DDTをはじめ、たくさんのプレイヤーと関わるようになっていったのである。
…つづく。
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