バスを降りて自分の足で歩く力をくれたのは、「書くこと」と「坐ること」だった

GEMSTONE 今尾江美子

今年5月に立ち上げた3ヵ月のオンラインプログラム「EMERGE」。ここには、これまでも立派に働いてきたけれど、いま一度立ち止まって、これからの仕事について、働き方について考えたい人たちが集まっている。

めざす出口は様々で、転職、複業、MBA留学などの目に見えるものだったり、自分の事業やポジションの再定義という目に見えにくいものだったりするけれど、それぞれがキャリアの岐路に立っている。より良い次の一歩を踏み出すために。

そんな参加者たちの「キャリアシフト」の現場に立ち会っていると、自然と過去の自分のそれと重なり、相手の中に過去の自分を見るような気持ちになる。

キャリアシフトは、スイッチを押すように簡単にはいかない。困難のひとつは、今の現状から抜け出せないことで、なかなかバスから降りられずにかなり遠くまで来てしまった、という人も少なくない。

私もそうだった。このバスに乗っていても行きたい場所に行かれない、と気づいても、バスは安全で快適で、いまここで降りたらもう二度とこの設備の整ったバスには乗れないかもしれない、一度降りたら次のバスはもう来ないかもしれない、そう思ってずいぶん長く乗り続けた。

でもある時、ひょいと飛び降りた。何年も悩み続けたわりに、降りるときはあっけなかった。あっけなく肩書も収入もなくなった。けれど、降りてみると自分の足で大地を歩くのは楽しかった。いま思い返すと、それを後押ししてくれたのは、「書くこと」と「坐ること」だったように思う。

書くこと

当時、仕事はそれなりに評価されていたものの、自分がやりたいことは、なかなか会社に理解されなかった。そこで、それを論文として外に応募してみたら、入賞した。それは論文の体を為さない、ただただ想いを書き連ねただけの代物だったけれど、外にはこの考えを認めてくれる人がいる。話が通じる場所がある。その発見が、一つの引き金になった。

その時に書いたことも、その後に(副賞の「学術奨励金」に背中を押されて)留学して書いたペーパーの中身も、すべてその後の仕事につながっている。不思議と、書くことで、自分の考えや想いが現実のものになってきたような感覚がある。

この時の「書く」という作業は、まだ形を持たない自分の考えや想いに、言葉や論理で輪郭を与え、形を持たせることだった。これによって、人に伝えられる、という効果もあるけれど、それより大事なのは、自分でそれを認識できる、ということだと思う。

ふわふわとした考えを捉えるのは、簡単ではない。捕まえたと思ったらスルスルと逃げるし、そもそも捕まえてもいなかったりする。やっと捕まえて見てみたら、思っていたほど大したことはなくてガッカリしたりする。

でも、その雲を掴むような作業を繰り返すことで、ひたすら自分と向き合い、そこにあるものが結晶化して浮上してくる。理屈はわからないのだけど、それが自分を支える力になり、現実を呼び込む力にもなる。そんな感じがしている。

坐ること

当時、よくお寺に通って坐禅をしていた。悩んでいたから、というより、単にその行為に惹かれていた。その頃の自分に、必要だったのだと思う。

ただただ、坐る。坐って、今ここに集中する。その時のメモの一部が残っている。(もう10年くらい前・・)

ふたたび、暮れゆく都会をバスに乗り、寺を訪れる。ご住職の説法は、『他、是レ我ニ非ズ』
「あれは本当の自分ではない」と過去の自分を後悔すること、「いつか立派な自分になれる」と未来の自分に期待すること、それらは全く無意味である。存在するのは、ただ、今ここに在る自分だけ。
過去の自分も、未来の自分も、その存在はなく、「今ここに在る自分だけが、本当の自分である」。それを認められなければ、いつまで経っても、自分が自分の人生の主役になることはできない。

坐禅をすると、いかに自分の意識が、過去や未来を彷徨っていて、いかに「今」に留まっていないかを思い知らされた。だから、繰り返し坐った。

この行為も今から思えば、まだ形を持たない自分の考えや想いを、形のないままに、そこにあるものと認識すること。もしくは、それと向き合う姿勢をつくること。そんな意味合いがあったのかもしれない。「書く」より前の、その混とんと共にある時間。


「書くこと」と「坐ること」。このシンプルな行動が持つ、偉大な力。何がどうなってそうなるのか、その理屈をうまく説明はできないのだけど、そこには確かに何かが働いていると、そう信じざるを得ない。


EMERGE第3弾 2021.6〜2021.8 参加申込、受付中。

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