アニメ批評はA/Bテストの基準をどう越えられるのか?

 アニメを視聴することでその本人の生理的情報や、嗜好の軸や興味の方向性などを自動的にモニタリングされるシステムが出来上がっている場合、我々がアニメの感想を述べるとか、それに類する内容に関する共有を語ることの意味がどの程度まで低減されているのか。問題は次のこと、アニメは我々の現実とどのような関係にあるのかということ。アニメが私にとっても我々にとってもいかなる関係もないとするのならば、モニタリングされる情報の個別性の精度とはいかなるトレースのための実践を要求しているのだろうか。アニメを語ることに意味がないということすら語ることの意味とは何であるのか。

 2024年の冬アニメの総括が官僚制ディスクールの裏切り者の粛清の「やらかし」に属するものであるとしたら2024年春アニメの総括はどう考えても集団ストーカーの情報シャッフル構造に関する説明のヴァリエーションである。ここで私は日本のアニメの個別的な感想性ではなく日本のアニメがどう現実の政治を隠蔽し、欺き、自分の都合の良いように消費者を誘導しようとしているのかとそのアニメの物語のレクチュール上の無邪気さのギャップを取ろうとしている。もちろんアニメはフィクションであり嘘をついているわけだから、そんなことをわざわざ指摘する必要はないじゃないかと言いたくなるかもしれない。しかし日本の政治とは物語がフィクションであるかという点ではなくて、政治がレクチュールに翻訳される位相の構造を正確に対応させて嘘をつかなければならない、という点に存するのだと仮定すれば、アニメーションが自分たちの映像技術を素直に誇らしげに表現することとシナリオ上のキャラクターの声の表現内容との落差は決定的なものになっていくはずである。私は「声優ラジオのウラオモテ」ほどこの構造が露骨に出ている作品はないと思うが、他の作品がうまくいっているように見える理由は、「声優ラジオのウラオモテ」ほど露骨な政治的シナリオを「現実化して」映像化していないからにすぎないと思われる。

 アニメにおいて集団ストーカーが用いる最新技術兵器をファンタジー化する、という翻訳は本質的なのだが、それをアニメで表現するというのはどのような改変をもたらすのか、ということが問われなければならない。ここで私はとても単純な前提を取っている。それは集団ストーカーが用いる兵器を文字通りのものとして表現することは日本の政治的ディスクールでは無条件に弾かれる、というのがそれである。この理由はのちにもっと詳しく説明するが、アニメの科学的観点と映像効果の入り混じった「リアル」の描写そのものを最新技術兵器は脅かしており、アニメのヒエラルキー構造とこれらの兵器の記述は「均衡がとれない」という理由になると思われる。別にアニメの均衡がとれなくてもいいではないか、という意見にはこう答えるしかない。もし「集団ストーカーの被害者」が言っていることが本当なら、私達の住んでいる「現実」はどうなるのか、と。この安全感覚の距離こそアニメが表現しなければならず、また「世界を守る」ための秩序の維持として必要な口実の一種だということがアニメを考えることの重要性である。アニメは集団ストーカー被害を認めないのではなく、その世界性の位相を実体の位置に置いて彼らの人格的な措定そのものを否定しなければならないのだ。

 アニメーションの世界でのキャラクターとの交流は現実の人間との交流にどんな影響を与えるのか。もし元の現実の人間がキャラクターのモデルになっていた場合、そのキャラクターが現実の人間よりも好ましいものだとしたら、それはその現実の人間との交流を否定する材料になるということなのか。作家-読者モデルのような非対称関係は現在ではかなり難しくなっているが消費者の鏡像的な関係だけに従事するようなクリエイター-消費者モデルも特有の難点を抱えている。それはアイデアの著作権ではなくて、あるキャラクターを現有する存在と見なすことはある他の現実存在の代替を犠牲にすることでしか評価することができないということをデータとしては最大限に「保有」してしまうという問題である、想像上のキャラクターの方が「完璧」だとか現実の人間にはキャラクターは及ばない点があるとか言うことが問題なのではなく、もしキャラクターが現実のモデルとして犠牲を代替的に表現するのならば、アニメーションの世界では住人は増えていくが社会的な意味での住人は減っていかざるを得ないということが問題なのである。ネット環境での反応の数が客観的に増えていくことと現実のアクティビティの増減は因果的ではないが、集団ストーカー管理の文脈では明らかな相関関係がある。やっていることは囲い込みの一種だがネット上の土地が想像力の資源として囲い込まれているのであり、他の(反対勢力などは)そこからシナリオ的に排除される。しかし集団ストーカー管理の文脈と集団ストーカーがやっていることの間には一線がある。この別勢力の介入という説明が「集団ストーカー被害者の反撃」なのかそれともある特定の陰謀のエクリチュールに則った攻撃を求めているのか、という点に構造上の穴がある。私が言っているのは、集団ストーカーに敵対する勢力が別の陰謀団体に取って代わられている、ということではなくて、集団ストーカーという管理の文脈では陰謀劇の構造を王権のエクリチュールのように描写しなければならないという構造的理由の方である。言い換えると「集団ストーカー被害者」に成りきることが記述的に簡単なのは、被害者のディスクールという政治的な論理自体がアニメーションで反駁される、という反ポリコレ的な実践の一部に解消できてしまうという形式によっており、そこからある特定の改善責任が「種族至上主義」のように記述されるという実体の横滑りの静寂主義的態度に置き換えられるその超越性が王と呼称される記述そのものに含まれているということにほかならない。

 アニメにおける「王のディスクール」はどう「王のエクリチュール」と関係しているのか。「王のディスクール」とは『王族』とか王位継承権とか言うときの現実的なものの政治性を表す形式であるのに対して「王のエクリチュール」とは「ファンタジー世界の王様」とか「王なら何とかしてくれる」とか言うときの身振りを反映している。問題はアニメを構成する際、この両者はどの程度まで混同されることがありうるか、あるいは入れ替わることがありうるかの「実在性」を設定することの方である。例えば「王のディスクール」の形式性においても王は「優し」かったり「傲慢」であったりすることができる一方で、「王のエクリチュール」がもっと賢明な策を授けたり仲たがいする両者を仲裁する技術の提示であったりすることもあり得る。王の仲間が加入したり命令を聞いたりするようになるためには、ほとんどシナリオ的な構造の流れが必要不可欠であり、その基準がアニメの面白さとして説明されるその記述性を消費者に対して満たさなければならない。さて、問題はアニメで面白さを説得する記述の政治性は(本質的には)イデオロギー的であるはずなのに、実際にはそうなっていないという点にある。例えば、もし王政の国に住んでいる人間が王の言葉を聞いてそれに感情を動かされ、その王の精神性や人格を尊敬するようになる、というのはご都合主義とは言え一般的な成り行きというものである。このことが物語であるという点には疑いを入れる余地がないであろう。それにも関わらず、今期アニメはこの説明の正確な反転をイデオロギー的なものの方でしかとらないのである。つまり王の精神性や人格を「本気で」尊敬するのが反イデオロギー的であり、どこまでも相手の能力を正確に見積もって、相手に対する普遍的な礼儀感情を維持すると同時に道具として利用する、ということの方がシステムとしてのイデオロギーに組み込まれているということ。これはアニメの王政が「ファンタジー世界の民主主義」であると考える場合にだけ有効な標識である。つまりもし軍隊的な政治性の官僚的システムが仲間内の集団的な絆性という物でアニメ的に表現されているとしたら、それは間違いなく民主主義ではなく王権的なエクリチュール構造をフィクションではなく現実の再認として機能させているということ。それが固有性のレクチュールだからである。

 では我々は次のように考えるべきか。「ファンタジー世界の王政」が民主主義のディスクールについて語っているとすれば、その方向に応じた民主的権利の称揚を語るべきであり、一方で軍隊的な政治性の官僚的システムを構造化するイデオロギー的再認のフィクションは隠蔽のレトリックを登場人物に託して固有化しているのだから、その固有化に対応するような批評的読解の匿名性を差し込まなければならないと。私が思うことがあるとすれば、それはこの「とてつもなく妥当な提案」がまず機能しないであろうということである。なぜなのか。それはその機能を代用しているのが集団ストーカーのの精神モニタリングだからである。アニメーションの「リアルさ」のアイデアを供給しているのが集団ストーカーの被害者側からのものなのか、それとも単に集団ストーカーの組織的情報網を流通させるシステムが出来上がっているのか、おそらくはその両方が匿名的な批評的読解の「誤配」にあらかじめ組み込まれている。要するに純粋な相手への称賛かA/Bテスト的な能力評価的な最新技術兵器の変質的といっていいほどの調査しかキャラクターが「評価される」規格はない。それはアニメ単体の作品ごとの出来が問題になっているからではなく、アニメの集団主義制作体制そのものが表現の生産表象を階層化するための政治的イデオロギーであるということを物語っている。王権に対するエクリチュール構造が「優しい」ものであれ「傲慢」なものであれ、それがある特定の被害集団に対する権力ヒエラルキーの構造化として機能しているという所作その物こそアニメが「リアル」を標榜するための形式的原理になっている。

 したがって「アニメーションは政治的問題を解決しない」という言葉の技術的意味を考える必要がある。もしアニメが政治を解決しないのならば、それはなぜ存在しているのか。アニメはある特定の体制を存続させるための「スクリーン」なのか。「アニメは幻想」であるというだけではなぜ足りなないのか。我々は「欺かれている現実」というものを議論する口実を必要としている。言い換えると陰謀論による形式論理の欺きに対して、想像的なシナリオを自由に走らせるための囮が必要であり、その「欺き」の類似性によって面白さの感覚に対する「リアルさ」を現実に対して築かなければならない(我々はどうしようもなくつまらないアニメを見ることができない)。拷問-ラブシーン-無双の感覚の空間的ショットはスクリーンに対するモニタリングの意識的干渉を説明する役割を果たす。この「干渉」が視覚的に表現されるということをエクリチュールの骨子にするというのは、どの程度まで私達を分離するための「表象上の」安全装置になるのだろうか。

 一番簡単な種類の政治的ディスクールから考えていこう。それは「悪役を倒す」と「政治的腐敗をどうにかする」である。この目的のための手段として色々な種類のファンタジーがあるだろうが、それぞれに対応した独自の技術流通を獲得して特定の問題に対処すると仮定しよう。かつてアニメには無意味さの漂流という物が存在した(今も存在してはいる)。そのような種類のアニメに比べて私が考えているアニメは「圧倒的に有意味」であるのだろうか。むしろ問題なのは集団ストーカー及び制作技術集団に対する政治化としてこれ以上「無意味な」措定はないのではないか、というのが「悪役を倒す」と「政治的腐敗をどうにかする」という意味に対する疑念である。アニメで悪役を倒しても自己満足にしかならず、政治的腐敗を取り除くいかなる「有用性」も単なる現実の影絵でしかない、というアニメ制作のレトリック自体がアニメ化している。今期のアニメの面白さはこの逆である。ほとんど素直と言っていいほど悪役が倒された方が気持ちがよく有用であることに対して意義のある称賛が存在する。しかしどうしてそうなるのか?それはエクリチュールの反転があらかじめ現実の比準において成立していて、その形式内容を物語化したものだけを悪として規定しているからだ。つまり悪の要素をアニメキャラクターが演じる要素として抽象的に外在化する、というレトリックそのものを合成した現実の被害者の悪感情に基づいて制作しているからその無双に根拠があるのだが、それは体制のヒエラルキーと「匿名でない」人々の政治的な立場を強化するのである。だから今期のアニメが「政治的腐敗をどうにかするために悪を倒す」がレトリックでしかないとわかっていてそれをガス抜きとして許容する____ということが危険であるというそのことこそ、「対処」されなければならない余剰の悪意にほかならないのである。

 現実を変革できるほど過剰な能力がある人々がいかにして既存体制を維持するために力を振るってくれるのか。アニメーションが「破壊と創造」という言葉を使う時、それはどこまでまじめにとるべきなのか。これがアニメが意識させずにおきたいと考えていることである。なぜなら現実の変革とイデオロギーとの関係とは、ある人間が「合理的な」発想に基づいて世界を変え得るその限度において社会関係を構成する能力を労働として実現することにあるが、アニメーションではその限界は想像的なので必然的に家族関係の内部処理を不良債権のように抱え込まざるを得ず、その暴力はほとんど確実に「リアルさ」の心地よい限度を搔き乱すであろうし、単なる「敵」が陰謀をしてくれる「以上のもの」になってしまうからである。もちろんそれがエクリチュールの構造的意味であるといってもいい。そうでなければいかなる読解も単なる記号としての表象操作でしかなくなってしまうからだ。アニメは最終回でこの悪意の余剰を閉じる特定の操作を行うがほとんどの場合、それを消費者が満足するということはない。続きが視たいと思うか、「まあそうなるよね」的な感想を抱くかである。わたしはあえて現実を変革することの意義をアニメには置かなかった。それはアニメで欲望することに関して「現実を変革すること」がその主要な意識の源泉であるということがかなり疑わしいからである。おそらくアニメは現実を維持するという役割を、現実を変えるという欲望に転移することにエクリチュールの翻訳があると思うのだが、その構造を日本の支配体制そのもので取る場合には、その差異が結果的に現実を変えてしまうという結果をもたらすがゆえに、それは「現実を変える」という意識的な政治活動よりも「優位に」来てしまうので、アニメの制作集団は精神モニタリング管理の徹底でそれを消費に転換するという構図を描かなければならないのだと思われる(「真剣な」アニメほど関連商品のグッズが豊富になっていく理由はそこにある)。もし実際の政党集団が陰謀劇をもって悪党を成敗する的なことが「政治活動」だったとして、それにいかなる意味を付与することができるのか、というとき、アニメはそれを「現実に実行する」という批評が的外れなように、アニメが暴力を逆恨みの転移によって非暴力的な実態を守っている、というのも決定的に詭弁だと思われる。アニメは変革の意識を阻むための変革性というレトリックを現実の対象として構造化するという点に分析上の優位があるのであって、物語のキャラクターの固有性に対する現実の身体に劣等性が来るのではないからだ。それはアニメで現実を変えるという時の形式が対立規定でしか成り立っていないことからも判る。アニメを見ることは現実を変えるかもしれないということは、アニメが人々の意識を変えていくのだ、という意見とは決定的に別だということを理解しておかなければならない。

 コンプレックス複合体をアニメのキャラクターが克服していく過程と我々が自分のコンプレックスに向き合う時の現実に対する障害性とはどのような関連があるのか。なぜ現実に自分にできないことがアニメのキャラクターならできることがその存在の欠陥を解消することに繋がるのか。そしてアニメでそれが成功するということとそれが政治的な解決にはならないということにどのような意味があるのか。アニメにおいては特徴の組み合わせがどのように優位の言説に対してその表現を身体に宿らせることができるのかで感情の放出が消費者の視線で設定されるが政治の言説においては組み合わせの優位という記述は内容としての主体の役割を交換可能な意味として満たせないからである。それはアニメのキャラクターが「あなたはかけがえのない唯一無二の人だ」と主張しても「私」がその構造の記述に対して返答することができないか、あるいは単に記述特性に対して宛先を送っているかに過ぎないということを物語っている(後者はエクリチュールの形式)。したがってコンプレックスの記述は身体的細部の描写と政治的ディスクールの窮乏の組み合わせに対して感情の声がより「近い」場所に設定されるかどうかで存在の欠陥を疑似的に代替する放出として「許容する」かどうかの閾値がモニタリングの論理として記録されるという家族のディスクールの代理表象として機能する。「母」が日本の「社会的コンプレックス」のエクリチュールの骨子である理由は、家庭の母の「監視」はモニタリングの防衛機構との想像的類似性があるからである。だから母との葛藤は解決されるがモニタリングとの葛藤は物語的な解決にしかならない。想像的な「父」はこの場合、技術情報の金銭的換喩の位置にしか存在しないからである。日本の父が超越的でないのなら、つまり宗教的でないのなら、およそ良い父は「死んだ」父であり、身体的な残余だけが享楽として残っているような半死体と同じ原型的な再現を持つ。そしてそれは金銭的に「俗悪な」場合しか許容されえない。これは政治的ディスクールが貴族的な様式を持たない限り不可避的である。それだからコンプレックスは父ではなく、父に代理される欲動の法の方に向かう。これが監視モニタリングの位置を脅かすのは「父」が愛人と子供と家族になるときではなく、家族が常に子育てと一致した記述でアニメの分裂として語られる場合である。その場合、父は「戦いに出かける」のではなく、構造的に外部を参照せざるを得なくなるからだ。

 情報シャッフルの非対称性はアンカリングの予測変換として情報精度の「指定」を行う。情報シャッフルの構造を一番よく説明するための方法は歴史記述と歴史認識の違いについての議論を展開することである。それはキャラクターの学習能力の履歴とこれからの創作的な態度のジャンル分けに敷衍されるシステム表象のカラーリングと類似的である。情報シャッフルの基本的な操作とは①まず集団ストーカー的なモニタリングから抽出した被害者の膨大な生理的・精神的・認知的・行動的ダイアグラムがある。②この情報から基本的な日常行動とプライベート空間の行動のギャップを予測精度として指定するための作法を取る。これは仄めかし手法のための行動原則の情報共有である。③それにもかかわらず、というよりもこの集団ストーカーモニタリングのネット公開は「あらかじめ操作された」上書きのトレースが存在している。これがなぜ起こるのかは都合の悪い情報ではなく、都合の悪い構造的な記述的に重複する説明が公開される場合にそれをサクラ的な監視員の行動トレースと合成して中和した行動規範(場合によってはクラスタ的な振る舞いすらも)を実行する。したがって情報シャッフルが起こるのは被害者が言われて嫌なプライベート情報が仄めかされるときや集団ストーカーにとって都合の悪い事実が知らされるときではなく、すべてのモニタリング記載の歴史記述言明を取る場合に、現在の歴史認識の政治的な合意に対する矛盾が「集団ストーカーの内部記述として」生成されてしまうその余剰を、被害者の行動予測クラスタの時系列処理からよそにずらして、その記載情報と認識統合のギャップを均すことを目的としている。集団ストーカーがあらゆる日常情報の工作・隠ぺいを不断に行い、司法領域においてすら捏造とでっちあげが横断しているにもかかわらず歴史修正主義に対するこの断固たる処置は厳密な意味で政治的である。ここで私が言いたいことは、例えば「ネトウヨは歴史修正主義だ」という記述言明と集団ストーカーが「被害にあっている人物の語る主張は歴史修正主義だ」ということが全く別物なのに、同じ政治的構造化で処理されていることを人工知能の時系列処理が隠蔽されるという技術的な精度予測のトレースの情報シャッフルの事実から説明しているのである。言い換えると人工知能処理の時系列変換はもちろん厳密な意味では歴史的ではありえないから、そのモニタリングの自動生成処理を行う場合でもある程度の人的な出力が必要だが、その集団ストーカー側が、内部の監視的な告発言明を生み出さないようにするための検閲機構が必要なのに、それを被害者のモニタリングと両立させることができないから情報シャッフルの合成によってそれを嫌がらせの一種として機能させようとするのである。集団ストーカーの協力側の制作団体が奇妙なまでに馬鹿げた記述を信用したり、推測だけに頼っている場合の方が整合性が取れるのに、あえてモニタリング言明に忠実になぞった評価をして失敗したりするのは(おそらく)これが原因なのだ。アニメの虚構的な歴史修正主義と現実の敗戦処理の歴史修正主義をエクリチュールで混合してしまうものが被害者のモニタリングの記載と同じ構造を取るときにそれを特徴量的な外在化で行動予測的に分断してしまうのはアニメーションが「露骨に面白い展開」を取るときの口実であると考えることは有用である。なぜなら情報シャッフルにおける個別性の精度はモニタリング記載に対する外在化の記号がどれほど独立に社会的な認知として興味を持たれるかというコンテンツ制作にかなりの程度依存しているのだから。制作コンテンツの消費者モニタリングの統計手法と匿名的な誤配の差異を利益として還流する言論的な回路はほぼ集団ストーカー側のシャッフルによって横領されていると言える。あるクリエイターに対する評価が単純な称賛と否定的な沈黙の価値項目に分化していかざるを得ないのは、歴史記述に対するモニタリングが圧倒的に認識論的な配慮を上回る勢いで予測サンプルのラベルが形成されるからであり、そのラベルは集団ストーカーが意図して合成される予測パターンの演繹に自動化されるという構造でアニメのストーリーに回収されてしまうのだ。

 アニメ内部のコンテンツ消費者(ファン)という項目はどのようにA/Bテストのモニタリングから自由になるのだろうか。アニメを視ること、アニメを話題にすること、アニメの感想を共有すること、これらがSNSという技術的な監視網を伝播して波及していく形態である場合に、その集団ストーカー管理のアンカリングから逃れるための手法や主張というものは存在しているのか。あるコンテンツが人気になったり不人気になったりするのはある特定の消費者の要求を満たしていないという場合だけであり得るのか。あるコンテンツと別のコンテンツがファンのシェアを取り合うというのは、そのようなモニタリングテストの区分けを乗り越える要素を持っているのか。まず第一の要素は声の政治構造はどのような露骨なシナリオを必要としているのかである。自分らしい声と、それと正反対であるような声優のキャラはいかに共時的に公共性になるのか。この答えはA/Bテストのモニタリングに対する視聴者の反応がリアルさの技術と呼ばれるものの欺きを現実として再認できる虚構である強度を有するかどうかで決まる。これは逆説的に虚構である強度を持つ声は有名声優としての知名度として再認される場合は評価が反転するというヒエラルキーと機を同じくしている、という小説的対立構造によって規定されている。わかりやすく言うと、普通ファンの人間が「声」に魅力を感じるのは、作品の小説的想像力の隠喩性を代理してくれる要素が実際の声を出している人物と別人であるという説明によってキャラクターを創作するときである、ということになる。だからもしアニメが実際の人物と作中アニメの人物とに分裂しているのにシナリオの構造が維持されているとすればそれは監視モニタリングの被害者の声を(実は)代理しているから政治的なイデオロギーが露骨に王権的な派生として家庭的な物語に組み込まれるようなる、という情報シャッフルの記述に依拠しなければならない。そしてその場合声優の「固有名」が「同一」であるのは、同じ行動予測の別パターンをシミュレーションで走らせているからにすぎないのである。この場合に対処しなければならない矛盾は集団ストーカーの「声」の被害にあっている人間の声が実際に口に出された「音声」である必要はいささかもなく、したがってその声の公共性が喪失した歴史修正の認識それ自体が「声」の代理としての意味を「王」としてのエクリチュールで再現するかもしれず、それは政治的な王権や王位継承権のディスクールとは無関係なレトリックの記述であるのに、情報シャッフルのモニタリングにおいては同じ歴史記述のトレースとして物語られるようになるかもしれない、というアンカリングが機能してしまうということ。ここでは「ファンの声」というのはほぼ「推しキャラ」という王権のエクリチュールを被害者のモニタリング機能の転移によってコンテンツ制作団体に回収される主体の先取り以外の何物でもなく、それが循環論法になるかどうかはアニメのキャラのコンプレックスに共感するかどうかで合成の精度が購入に代わるので、特定の身体性が固有の記入を政治的に持つか、集団ストーカーの被害者という匿名の記述を持つかはどちらでもいいということになってしまう。もし匿名の記述がコンプレックス記述によって中和されないのならガス抜きとして用いられた物語の展開は余剰の悪意で退治されるべき「悪役の複合体」として設計され、それは別のファンの面白さの駆動原理によって政治的に「退治される」ことになる。原則的に考えると「これが」まったく逆説的に見えるがA/Bテストのモニタリングから逃れるための方法である。なぜならアニメの主人公の主体が政治的な主体であるというのは情報シャッフルの観点から言えば特定の行動予測を正確に反映した結果に過ぎないからである。情報シャッフルはある主体の行動予測パターンをネット上の個人の「内在記憶」として虚構的に発話精度をデータベース化する消費構造の自動化の一種なのだから、情報シャッフルがある主体に対して露骨な政治的シナリオを要求せざる得なくなるほどモニタリングの精度の管理コストが集団的な構造の維持から外れざるを得なくなる、という点に、おそらく誤配の意図をより存在論的にするための「幽霊的な記憶の痕跡」というフィクションによって反転させられたものが成立する可能性があるはずなのだ。

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