アナクロ書評 加藤典洋『オレの東大物語』(2020年)(中)

その2 いわゆる仲野雅処分問題

 加藤典洋が『オレの東大物語』(正確には副題として「1966-1972」が続くのだが)で東大闘争の概説を語るのは、第二部第八節のp.83からで、これは通念どおり、医学部インターン問題から語る。加藤視線を通してであるが、わかりやすい解説が伴っている。しかし加藤がそれよりもより重く価値を置くものが、いわゆる仲野雅処分問題で、こちらは、p.103以降である。この解説はそのまま受け取るのには、注意が必要であるように私には思われる。

 仲野雅問題とここで呼ぶものは、1967年10月4日に開かれた文学部協議会(文協)の終わりかけのとき、教授会が控えているというので、議論を打ち切って教授会に向かおうとする教授・助教授連と「日を改めての交渉継続を求める学生と押し問答になった」(p.109)ときに、築島裕助教授と学生仲野との間に起こった出来事であり、その事実解釈をめぐる争いのなかで、仲野が一方的に無期限停学の処分を受け、それへの抗議運動が起こるのだが、それをめぐる事象の総体だとしておこう。
加藤の文章によれば、次の背景がある。

「文学部の当局と学生のあいだには、戦後から、教授会、以文会(助手会)、学友会(学生自治会)の三者が、学部の運営、特に学生生活に関連の深い事項について協議する機関、文学部協議会略称文協が設置され、ほぼ円滑に運営されていた。(改行)しかし六七年に入ったあたりから、学生ホールの利用等に関し学友会と利用サークル団体の間に党派的対立が起こるようになる。そのため、学友会以外の文学部学生が、この協議会の場に利用サークル団体のオブザーバーとしての参加が認められるようになっていた。(改行)ところが、医学部の場合と同じく総長、時計台当局からの管理強化のプレッシャーがかかり、文学部当局は六七年五月、一方的にオブザーバーの排除を決めてそれを学生側に通達する。そしてそれが両者の対立の端緒となる。…文協はいつも二週間に一度、教授会の直前に開かれていた。」
(p.108-109)

 ここらは早大の状況とも比較できそうな面があり、興味深いが、上記の背景については私にはわからないところはある(特にその「党派的対立」とはどういうことなのか)。

この問題についての後年のサーヴェイで最も詳しく追及しているのは、私のみるところ、清水靖久「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」(2019年3月『国立民俗博物館研究報告』第216集)で、ここから学ぶところは多い。読者も是非参照してもらいたいのだが、いくつか疑問はある。
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2469
(ちなみにこれは清水の『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会・2019年)の第五章以降と合わせて読みたいところだ)。

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