大江健三郎の虚構作品における小モティーフについてのいくつかの断章

はじめに

 大江健三郎の作品のなかには、たとえば、「ギー」「コギー」という名前の登場人物が出てくる。「義」に由来する。彼の義兄は池内義弘という人物だった。別には「ジン」という人物も、いろいろ形象を変えて登場する(『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』)。おそらく「仁」から来ているのだろう。尾崎真理子によるインタヴューで、大江はその祖に当たる人物の一人が、大坂の仁斎派(古義派)の塾に学んでいたこと、そして大洲に帰り私塾を経営しており、扁額に「義」と大書していたことを語っている(『作家自身を語る』2007年)。
 このような小さい仕掛けを、適当な言葉ではないが、ここでは小モティーフと名付ける。
 このような事例は枚挙に暇ない。「繁」「隆」(『治療塔』『燃え上がる緑の木』)がそうだったり、あるいは後述するが、大江と平田篤胤派との関わりなどもそれである。高所衆(たかじょしゅ)もそうである。大江サーガにおいて、あるモティーフが変奏されて現出してくることを発見することもまたその読書の楽しみとなっている。小とつけるのは、大きな執筆の動機はまた違うものだから。
 いくつか気になった点をここで取り上げてみよう。
※いわゆるlate works(『宙返り』以降)については、それまでの(『燃えあがる緑の木』までの)作品と同じ地平のなかで捉えてよいのか疑問に思うところもあるので、ここでは触れない。また機会をあらためて(工藤庸子や菊間晴子のその論考を読んだ上で)論じたい。

その1 田中良

「ぼくの一人の友だちの思い出から始めたい。かれは東大の教養学科からアメリカへ留学し、そこでフランス人の美しい娘と結婚し、パリに住んで国際政治論の研究をしていた。かれは秀才で、その才能に充分にふさわしい位置、あるいは職業をえることができないことをおおいに気にかけていたということだが、パリで会って話しているときそのような暗い不満の印象はなかった。ぼくはこの分野の学問の水準が日本でどのくらいかを知らないが、その友人の書いた文章や談話は、つねにぼくのような門外漢にも秀(すぐ)れた輝やきにみちているように思われた。すくなくともそれらは啓蒙的に秀れていた。ぼくはかれがやがて日本にかえり大学で仕事をするか、指導的な評論家になるかすることを疑っていなかった。いかにもそのような未来にむかっての実力にみちた安定感が、かれのパリでの孤独な生活を、背後からささえているように思われた。その友人が去年の冬、突然に、みずから縊れて、死んでしまった。遺書もなくフランス人の妻への、あらかじめのわずかな暗示さえもなく、まったく不意に。」(「ぼく自身のなかの戦争」1963年3月号『中央公論』掲載、『厳粛な綱渡り』1965年に収録)
「広島ですごす最後の夜、僕は核戦争についてのヒステリックなほどの恐怖感とともに生き、そのあげくパリで自殺した友人のために施餓鬼流燈供養、すなわち燈籠流しにでかける。」(『ヒロシマ・ノート』岩波新書・1965年)

 その友人、彼は小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(2015年)に二か所出てきているが、田中良である。
 田中について幾分か詳しい文章はある。当時、東大新聞研究所長をしていた城戸又一が追悼文を書いている(岩波『世界』1963年1月号)。追悼文の『世界」誌上の理由は、田中がこの雑誌でパリからの政治状況についてのルポや分析を頻繁に発信していたから。かなりの分量になる(それらが書籍化されているかどうか不明)。小谷野によれば田中は大江より4歳上ということは、1931年生まれになる。
 燈籠流しは1963年8月6日だということは、のちのNHKのドキュメント(『響きあう父と子』1994年)にもあるが、大江は田中良とともに生まれたばかりの光の名前を書いて同時に燈籠を流していたことになる。それをともにいた安江良介から咎められたのだった。
 田中が自殺したのは、1962年10月18日。
 彼はアメリカ留学から帰った1956年に城戸の東大大学院社会科学研究科の演習に参加していた。アメリカで彼はフランス人モニク(モニック)と知り合っていて、彼女を追って渡仏したがっていた。1957年の夏に渡仏する。庇護者は毎日新聞パリ特派員の角田明であり、そのアシスタントをしながら、パリ大学政治学研究所大学院にも通っていた。渡仏してすぐモニクとめでたく結婚している。
 彼はユネスコや国連の事務局に就職したい願望をもっておりそうした運動もしていたが、実現はしなかった。しかし、そのことがただちに自殺の原因としては考えられないらしい。日本に帰国すれば有力な新聞社の記者になる手だてはついていたという。周囲からすれば急としかいいようのない自殺(縊死)で、なんとも不可解で奇怪な自殺として映ったようだ。そしてその自殺は、大江健三郎の虚構作品のいくつか(『日常生活の冒険』『個人的な体験』『万延元年のフットボール』他)にモデルとまではいわぬにしろ(?)、題材として借りられることになるのだ。
 田中の文章は開高健の『声の狩人』に収録されていることがある(「核兵器 人間 文学」。光文社文庫2008年のものだとそう)。また開高健自身が田中夫妻についてそこで書いている。大江と開高はともにソ連からベルリンを経てパリまで行動をともにして取材をしている。特にパリではアルジェリアの独立をめぐってパリが沸騰していた時期にあたる。そこで彼らはデモのなかのサルトルに出会い、インタヴューもしている。田中夫妻のコーディネートによる。
開高健の文章。
「田中君は自分でもノートをとったが、奥さんのモニクさんにもノートをとらせた。”猫”というあだ名の彼女はしなやかな長身をたてて端正にテーブルに向かい、サルトルが話しはじめると夢中になって筆記したが、どんなにいそがしくなっても体からしなやかさとつつましやかさは消さなかった。ただ、彼女の相手は小男に持ちまえの精力を発揮してしゃべりにしゃべった。四〇分間、一秒もたちどまることなく、ツバをとばし、タバコの灰を胸に散らかし、ひくいが熱いだみ声で、ひたすらしゃべりつづけるのである。そして四〇分たつと、さめた大碗のブラック・コーヒーとおびただしい吸いがらの山を受皿にのこしてたちあがった。ニコニコ笑い、モニクさんの手をとって軽くキスしてから愛想よく挨拶し、短い足でせかせかと去っていった。彼女は鉛筆をおくと、ぐったりして
「……よく聞きとれなかったわよ」
と言った。」(「声の狩人」)

 女性名モニク(Monique)はモニカであり、有名なところでは、アウグスティヌスの母のサンタモニカ(アメリカのカリフォルニア近郊の地名にもなる)が知られているところか。

 開高が『声の狩人』を書けば、大江は『ヨーロッパの声・僕自身の声』(1962年)を書く(協働と競合?)。
ところで、この両者のサルトルへのまなざしは敬意に溢れながらもかなりの差異がある。もともとの思い入れの深さの違いにも由来するのかもしれない。
開高:
「彼(サルトル)は、その前夜、バスチーユ広場の群衆のなかにいた。殺到する国警の棍棒のなかで、逃げまどう群衆の一人として、短い足で外套をひきずりひきずり必死になって凍てついた舗石のうえを走りまわっていたのである。あれほど広大で濃密で聡明な、また、ときほぐし難く錯綜した、思考の肉感の世界をペンで切りひらいておきながら、もっとも単純な正義への衝動を失っていない。四方八方を完全に閉じられた、敗れることのわかりきった広場へ殴られにでかけている。書斎で彼は、何度となく、あらゆる角度から、知識人の非行動性についての憎悪と焦燥と絶望を描いたが、自身は明晰なままでとどまっていられないのだ。右翼のプラスチック爆弾はその彼の体のまわりやアパートの玄関口で炸裂した。おなじ立場におかれた場合、果して私はどれくらいの抵抗を示せることだろうか。」(「声の狩人」)

 これに対して大江「サルトルの肖像」(『世界』1962年3月号)がある。開高健とほぼ同じ経験を当地でしながらも、大江がより拘泥するのは、アルジェリア問題というよりは、核兵器の問題である。

「そしてなお、いま私の思い出すサルトルは文学者の印象、あまりに純粋に文学者の印象においてなのだ。私はサルトルを読んだことから不意に大学の文学部をえらび、サルトルについての文章を書いて仏文科を卒業した。私の青春の前半はサルトルの影のなかにあった。私は自分の先入観をまず疑うべきかもしれない。私は矛盾のなかにある。」(「サルトルの肖像」)
「モスクワのホテルの高い窓から、雪に汚れた舗道、雪に清められた建物群を見おろしていたときの私には、ソヴィエトの核実験こそが私のすべての状況の核、私のすべての政治問題のように感じられていたのだった。私たちがサルトルへの質問の第一にそれをえらんだのは、むしろそれは私たちにとっての内的必然だったのだった。」(同前)
「核実験についてのサルトルの回答でまず私を刺激したことは、結局サルトルも、エレンブルグたちとおなじように、今日の核実験の、すでになされてしまった核実験の危険にたいして深い恐怖を感じている私たちとは、ちがう世界に生きている人間だということであった。」(同前)
「しかし、いわゆる自由ヨーロッパのサルトルのような人間の感情にも、やはり日本人の感じ方とはちがうものがあるということは、くりかえしのべられていいことではあるまいか。核実験そのものが今日の戦争だという論理は、やはり日本人だけの認識であるように思われる。それは第一前提だ。」(同前)

 この二人がどういう質問をしたのか、サルトルの返答がどういうものだったか、は、田中良の「核兵器 人間 文学」に書いてある。単純化すれば次。
①ソヴィエトの核実験再開についてどう思うか? またそれに反対するラッセルや日本の知識人の「小国のヒューマニズム」についてどう思うか、核均衡・核抑止力は効力をもつのか、など。
→Sa:核のことは二次的で、本当の軍縮を目指す必要があり、それについては東(社会主義側)のほうが真剣に捉えており、ソ連の平和的共存の主張には意義がある。そしてトリアッティの路線にはおおかた賛成である。(フランスはいまアルジェリアの問題で手いっぱいで、核武装反対の運動については遅れをとっているとサルトルは語っているが、本音か? 大江はその遅れを憤慨している)。
②資本主義国家、社会主義国家関係なく、社会と政治は集団化の方向にむかい、個人主義が行方不明となっているが、個人と個人+個人と社会との関係の回復についてどう思うか。
→Sa:西側の個人主義などブルジョワ思想の産物で、そこに希望などない。社会主義側の新しい個人主義に希望があるというような返答。ソ連の若者についてどう思ったか?と大江と開高に逆質問をしている。
③後進国の自己変革、具体的にいえば日本(高度に民族資本が発達しながら後進国的特質も備えている)の自己変革と未来像について意見を聞かせてもらえたら。
Sa:日本には詳しくない。日本のなかの後進国的要素はアジア的であると同時に西欧的なものでもあることを忘れてはいけない。トリアッティの多元論でよいのではないか。しかし、「いまだかつて先進国で社会主義革命が行われたことはない」。左翼政党は何かを見出す必要がある。
④文学の現状について。かつてアメリカ文学に受けた衝撃を現在感じているものはあるか。文学の人間解体の逆向きの綜合化と回復を目指すものはあるか?→
Sa:何もない。いまは現実的スケールの大きい問題に没頭しすぎていて当面せざるをえない状況にある。仏国大革命の成果が文学に反映されたのは30年後だった。いまについても同じことがいえるだろう。

 大江は望んでいた回答は決して得られなかった。サルトルにとっては、核問題は二次的な問題にすぎない。大江によればこの時期のサルトルはトリアッティの多元論を認めているが、しかしそれはソ連の平和共存政策と矛盾しないどころか、依存していることを鋭く指摘している(中国共産党は平和共存策を否定してゆき、中ソ論争にいたる)。サルトルはハンガリー動乱をめぐる態度と評価でエレンブルグと絶交したというが、かといってソ連を全否定するようなことはしていない。よってソ連の核実験それ自体をいますぐ強く否定することも動機としては乏しかったと思われる。言外に当面は、その均衡を認めざるをえないと考えていたのではないのか。
※トリアッティの議論がセンセーショナルに日本の論壇に迎えられた痕跡は、1956年9月号の岩波『世界』の「特輯 社会主義への道は一つではない!」がある。

 このやりとりを読んで思い出すのは、サルトルと同一ではないが、話は飛んで後年の1995年での大江とクロード・シモンとの論争である。仏国政府による太平洋上での核実験に抗議して、南仏エクサン・プロヴァンスでの「本の市」の参加をキャンセルした大江に対するシモンによるルモンド紙上に、穏やかな口調であるにせよ、内容は激烈な批判の言葉が掲載された(残念ながら日本の状況への無知や誤解もあったが)。シモンの要旨はドイツ戦の仏国の敗北を受けた彼の地獄のような体験(捕虜、占領、抵抗)を仏国の若者に味わせたくない、そのためにはあらゆる手段をとる、核抑止力もそのひとつだというものだ。ロシアに対する警告も含んでおり、露宇戦後に読むとまた印象はかなり変わるものである(古井由吉は福田和也との対談でこれについてシモンのほうが「戦争が終わっていないという了見でしゃべっている」と発言の背景の苛烈さを推察していた)。勿論、大江はそれに対しても再批判していたようだ。

 大江「サルトルの肖像」に話を戻すと、興味深い表現がそこにみられる。長くなるが引用する。先の第三質問に関することである。

「西欧の人間の声に、日本人が具体的に有効な助言をききだすことのできた期間は、日本の近代史において、きわめて短かかったのではあるまいか? せいぜい明治はじめの二十年ないし三十年にすぎなかったのであるまいか、私はそのような疑いをもっている。サルトルとの対話は私のその疑いをたしかめる契機となったし、私がサルトルにあうまえにもっていたひとつの幻影をうちやぶることにもやくだった。サルトルにむかって先進国と後進国のまじりあう日本の自己変革、未来像について意見をただすということ、この質問の文章をかきながら私たちがどのような予想に胸をあつくしていたか、今はもう思いだせない。…(略)
思えば自分の内部で日本の自己変革、未来像という言葉が、充実した意味、具体的な意味をもっていたことなどなかったのではないか? 私はずいぶん永いあいだ日本の左翼に、敬意と不信感と嫉妬とを感じてきたが、時には軽蔑もしたが、それはかれらが日本の自己変革、未来像について自分たちの意味づけをしっかりもっているように見えたからだった。ごく単純にそうだった。反・安保闘争のとき私は日本の左翼の内部にわずかにふれたが、そのときも自分自身では不確実であいまいな野合にすぎないことがわかっていた。そして今やはり、自分の言葉としての自己変革、未来像は私のなかにはないし、あらためて日本の左翼にそれをといただす勇気も関心もないのである。しかしそれが気がかりであること、様々なコンプレクスをひきおこすことは確実なのだ。それをなぜサルトルに問うことを決心したのか、それをいま説明しようとして私は困難と羞恥とを感じている。このあいまいな問いにサルトルが寛大で誠実に努力してくれたことを私は感謝する。」(同前。太字は引用者による)

 「あいまいな」が2回現れている。私には文意がとりにくい面もあるのだが、こういうことを言っているのか。先進国と後進国のいりまじりあう祖国の「自己変革と未来像」、そんなこと自分はあまり考えていなかった、考えていた連中がいる、左翼だ。自分は複雑な感情を彼らに抱いている。反安保闘争時(大江は外国にいたのだが)、わずかに左翼勢力に触れ得た。自分と彼らとの関係は「あいまいな野合」だった。しかしその「日本の自己変革と未来像」という設問は自分にとって気がかりなことである。なぜこれをサルトルに問うてしまうんだろうか。「あいまいな質問」をしてしまった。
直接的には関わらないようで、しかし隣接的に「あいまいな日本の私」(1994年ノーベル文学賞受賞講演題)を問うている、予告していると断言してよいのではないか。日本の欲望、自己像は曖昧であり、1930年代以来の問題にある。それが曖昧な野合や曖昧な問いを齎すのだろう。「サルトルの肖像」(1962年)にすでに原型があったわけである。ただここではのちに大江に明確に区別づけられるような、vagueとambiguousとの区分があるのかどうかは、まだvagueである。

その2 二つの一揆~大江と平田篤胤との関係

 大江健三郎の最高傑作『万延元年のフットボール』(1967年)が大瀬から大洲にかけての1867年前後の二つの一揆をモデルにとっていることは自明である。それは1866年の奥福騒動(大瀬村一揆)と1871年の大洲騒動である。ただ最初からこの二つの一揆だけを作品に取りいれることを考えていたわけでもないらしい。
 「武満徹のエラボレーション」(『言い難き嘆きもて』収録、初出『すばる』2001年6月号)によれば、反安保闘争1960年から本当に100年前の1860年の桜田門外の変(井伊直弼殉難)を同時に描くつもりだったらしいので、これはつまり、浅沼稲次郎と井伊とを重ね合わそうとしていたのか?(親中と親米との違いがあるのだが)。 この構想は放棄したようだ。
 この二つの一揆について、当地の自治体誌の記述に変遷がある。それは研究成果の反映の違いである。
 我々が比較的容易に参照できるものとして、次の4つのものがある。
①大瀬自治センター所蔵の『郷土誌 大瀬村』(1935年)での記述。これはフィールドワーク研究の代表作である大隈満+鈴木健司編『大江健三郎研究』(リーブル出版・2004年。これはパート1のほう)の鈴木健司「倒立する<谷間の村>」に該当箇所の転載がある。
※ちなみにこの郷土誌だが、それ自体書き写したコピーであるかのようなのだ(ガリ版刷り?)。その字体は比較的最近の字である。ということは本体は別にあるということか?
②『内子町誌』(1971年)
③『新編内子町誌』(1995年)
④『うちこ時草紙・Ⅲ歴史編』(2019年)

A
 まず前者の1866年の大瀬村一揆についてである。後述するが、首謀者は大江が作品内で「高所衆」(『遅れてきた青年』)などとして、デフォルメして描く高地・高台の集落出身者である。旧大瀬村の構造、「谷間(窪地)と在」の区分についても後述する。
①は一揆の首謀者(頭取)の大久保の「福五郎」を「智慮分別なく」とか、一揆参加者を「烏合の衆」と書いたり、評価は散々である。
②は大変に興味深いので、後述する。
③は②と④との中間的に位置するが、福五郎及び大久保地区の階級性を問題にしている点できわめて意義深い。
④は一次資料にのみ依拠したもので、正確な報告かと思われる。一揆には作法があり、対応する側にもマニュアルがあることは指摘されるが、これもそのようなものだったようだ。ただ騒乱の規模は大きかった。③④共通する記述は、統治それ自体の転覆を企図したものではなく、世話役の村の有力者の不公正な行政を指弾することが最大の目的だったように思われる(村共有の蓄米や村銀が世話役の恣意で村外の人間にわたっていたり、酒屋の枡量りが不公正であったりすることへの糾弾。世話役が公益よりも私益を優先していることへの憤りである。たしかに世話役も苦しい状況ではあろうが)。注目するべきは、頭取の助命を一揆は請願したが、代官は「聞き届けた」ということだ。また頭取は「福治郎」が正しいということだ。また大瀬のさらに小田川川上の小田の「鬼蔦」も首謀者の一人という記述もあるようだ。
 さて②である。なにが興味深いかといえば、これは1971年の刊行で『万延元年』の出版後のものだが、その内容が『万延元年』的であり、大江はこの町誌の記述の原型を読んでいたのではないかとさえ、思わせるからだ。この②の記述は一部③に引き継がれ、一部④では問題にされていないところがある。
②についてパラフレーズしてみよう。
・大久保の福太郎は庄屋の曽根に金融の申し込みをしたが、「おまえのような野良博打うちに貸す金はない」「おまえのあとにつくものは蝶かトンボ、虻の類だろう」と、さんざん愚弄された上断られた。
・福太郎は大瀬の目抜き通りのナルヤ(成留屋)にある炷森三島神社宮司の倉橋豊丸の影響を受けていた。そしてその倉橋は、大洲藩の平田派の矢野玄道の思想的影響下にあった。天皇親政・祭政一致の思想の持主だったという(矢野玄道は新中央政府の宗教政策のスタッフになるが、失脚する)。
・福太郎を首謀とする一揆に倉橋豊丸は参加はしていないが、檄文を書いている。
・福太郎はそれぞれの集落をまわって「参加しない者の家に火をつける」と脅していたという。
・一揆はふくれあがり、騒動となり、暴徒化した。
・代官の要請で、福太郎は群衆に一揆の終了を伝え、解散となった(倉橋豊丸はその抑制に協力)。
・代官はその二人を後日、役所に誘う(要求を公式化せよという名目で)。そしてそのまま二人は拘束される。そして死骸となって帰ってくる。獄中病死という理由だが、同時に死ぬということは毒殺されたのだろうと人々は噂した。

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