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ナポレオン出でて、参謀本部なる

ドイツ国防軍神話とは何か

 友人の野村君が教えてくれた『ドイツ参謀本部』(渡部昇一)だが、一晩で一気に読むほど面白かった。

 ドイツといえばナチスというイメージがあるが、実際に第二次大戦で戦ったのはドイツ国防軍である。このドイツ国防軍とヒトラーの関係はかならずしも良いものでなかったのは有名な話である。

 プロの軍人たちから見れば、いかに総統といえども軍事に関しては素人同然だ。たしかにフランス、イギリスなどの大国と駆け引きをしながら、ポーランド進駐を成し遂げた外交力は大したものであるが、しかし、実際の作戦となると「素人は引っ込んでくれ」と国防軍の将軍たちは内心思っていた。それでも総統と国防軍双方の関係は、ドイツが勝っているうちは良好だったが(古人曰く「勝利はすべてを癒やす」)、戦争が敗色濃厚になるにしたがって当然のことながら緊張関係が増してきた。

 だが、それでも一九四四年までドイツが曲がりなりに戦えたのはヒトラーの指揮というよりも、国防軍が優秀であったからだというのが当時の定説で、「ヒトラーは敗れたが、国防軍は敗れていない」とも言われていた(今では、この国防軍不敗神話は眉唾であるとされている)。

 では、いったいなぜヒトラーの指揮にも「かかわらず」、国防軍は最大の敵であるフランスをたちまちに攻略して、パリを占領し、フランス軍とその助太刀に来ていたイギリス軍はダンケルクまで追いやられ、あやうくドーバー海峡に突き落とされるところだったのか(このとき、なぜヒトラーがダンケルクでイギリス軍主力に「最後の一撃」を与えなかったのかについては謎とされ、定説がない)。

 それはさておき、渡部先生の『ドイツ参謀本部』は、この電光石火のフランス攻略をなしとげた国防軍に「参謀本部」という頭脳があったこと、そしてこの頭脳集団がどうして出来上がったかを、まるで講談のように素人にも分かるように書いた名著であった。

 この本の紹介をしていけば紙数はいくらあっても足りないが、しかし、そのあらすじを書けば次のようになる。

予定説、恐るべし

 そもそもフランスとドイツが昔から犬猿の仲であったことは説明の要はないだろう。お隣同士で仲良くするというのは一般の家庭でもなかなかむずかしいもので、外面は友好的で、内心では嫉妬や不満が渦巻いているというのが相場である。

 その最初のきっかけは、世界の富を集めたブルボン王朝のフランスに比べて、「後進国」であったドイツがめきめき力を付けてきたことである。といっても、これはフランスのほうがミスをしたからだ。というのも、十六世紀、フランスではカトリックとプロテスタントの大規模な宗教内戦(ユグノー戦争)が起きた。これも考えてみれば、ドイツにルターなどという首領が現われて、それまではカトリック一辺倒だった欧州にプロテスタントという新勢力が現われ、それがフランスにも入ってきて、宗教戦争にまで発展した。これもドイツ人のせいと言えなくもない。

 で、このユグノー戦争は四〇年にわたって続いたが、カトリックの国王アンリ四世が有名な「ナントの勅令」を発して、信教の自由を認めて決着した。

 だが、信教の自由が認められたといっても国王はカトリックだから、その後もプロテスタントに対する迫害や差別が残った。そこでフランスからはユグノーと言われたプロテスタントがどんどん周辺国に移住する。中でもドイツはプロテスタントが生まれた国だからユグノーにとっては安心な移住先だった。この動きに対してフランス王室は「勝手にユグノーたちが退去してくれるのであれば、御の字だ」とばかりに傍観をしていた。

 しかし、これがのちのフランスにとって大きな運命の分かれ目になった。

 なぜなら、かのマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で喝破したように、近代資本主義が誕生したのはプロテスタント、ことにカルヴァン派の行動規範(エートス)があればこそ。

 ことに鍵になったのは「予定説」と言われる教義である。「神様は全知全能である以上、それぞれの人間の運命もあらかじめ定めていて、天国に行けるも行けないのも神様のご予定通り」というドグマがカルヴァン派の人々を支配していたから、彼らは朝も晩も寝ずに働いた──と書くと、多くの読者が「ちょっと待って! 何を言ってるのか意味不明だし」と言うに違いない。

 たしかに「救済されるかどうかは神がすでに決定済み」という教えには人間の努力が入る余地がない。そもそも努力するもしないも、それも神が決めておられること。だから成功するのはその人の努力の成果ではなくて、神様の計画通りとなる。

 そういうふうに聞くとキリスト教と縁薄き、多くの日本人は「最初から成功・不成功が決まっているんだったら、成功する人は寝ていても成功するはずだから努力なんて無駄、無駄」と思う。しかし、実際には布団にくるまって金持ちになった人はいない。そういう不心得者が神の救済リストに載っているはずがない(神の心は人には分からないから、ここらへんはあくまでも推測だが)。やっぱり、最後の審判で「神の国」に入れるような人は、脇目も振らずに真面目に働いているように神様に、いわばプログラムされているはずである。

 となると、何としてでも救済を望むプロテスタントの人たちは、いても立ってもいられない。少しの間でも怠け心が出てくるようでは、やはり「神様のリスト」から自分は外されているのではないかとゾッとする。そもそも、神様のお気持ちを忖度するような、不心得をしているのでは駄目である。とにかく神様を信じて、ここは迷うことなく働く。

 もし、自分が救済リストに載っているのであれば、夜も昼も働き通せるくらい、平気の平左であるはずだ。何しろ神様に守られているのだから──これを読んでも普通の日本人は「どこかおかしいんじゃないの」と思うだろう。「カルトじゃん」という人もあるだろう。

 だが、そのくらい救われるか救われないかは、当時のキリスト教徒にとっては最大の関心であると同時に、恐怖でもあった。生きている間も苦労の連続なのに、死んでも地獄や煉獄に落とされて永劫に働かされたり、お仕置きを受けたりするのでは何のために生まれたか分からない。一種の強迫観念とも言えるが、そのくらい救済は重要事であったので、プロテスタントは働きに働いた。一方のカトリックはといえば、いざとなったら、神様の出先機関である教会に寄進すれば救われる。そんなカネがなければ、マリア様にお願いして、神様におとりなしをいただければ、どうにかなると思っているわけだから、どうしても気の緩みが出る。というか、気が緩みっぱなしである。なので、既存のカトリック信者たちを押しのけてプロテスタント信者は商売も繁盛して、地域経済を支えていた。このあたりもカトリックとプロテスタントの仲違いの一因である。

ルター出でて、ギロチンの世になる

 話が長くなったが、この対立からフランスではユグノー戦争が起き、結局、カトリック有利で戦争が終わり、プロテスタントのユグノーたちはフランスを脱出する。

 そうなったら何が起きるかは言うまでもない。フランス経済の停滞である。それまでのフランスは、放っておいても働くユグノーたちのおかげで経済が回っていたのだが、彼らがいなくなれば、商工業は沈滞し、王室に入ってくる税金も減ってくる。庶民の生活も徐々に苦しくなってくる。これが積もり積もった結果、フランス革命が起きるのであるから、春秋の筆法をもってすれば、「マルティン・ルター出でて、ギロチンの世になる」。

 まあ、考えようによってはユグノーを追い出したおかげでフランスは革命が行なえたのだから感謝されこそすれ、憎まれることはないとは思うが、しかし、その間にプロイセンは(その当時はドイツは小国の集合体で、プロイセンがその首領という形であった)産業の近代化に成功して、かつての後進国から脱し、オーストリアやポーランドに攻め込んで大いに領土を広げたのだからフランス人にとっては愉快ではなかった。

 ところがそのプロイセンの有頂天も、一人の天才の出現によってかき消されてしまった。そう、ナポレオンの登場である。フランス革命の動乱の中、頭角を現わしたナポレオンはイタリア、エジプト遠征を成功させるや、とって返してヨーロッパの統一という野望を露わにする。ナポレオンの前にはまさに敵なし、プロイセンも一八〇六年にナポレオンと戦って敗れ、国家存亡の危機に瀕する。

 ……と、ここまでが「ドイツ参謀本部」物語の前段である。長々とお付き合いいただいて恐縮であるが、この因縁が分からぬと以後の歴史が分からないのだからしょうがない。

ドイツ人最大の発明「参謀本部」

 さて、この大敗北によってプロイセンは立憲君主国にならざるをえなかった。要するに君主を戴いた共和制の国になったのである。なぜならばナポレオンがあれほどの強さを誇れたのは共和制の精神によって、フランス国民一人一人に語りかけ、国家総動員体制とでも言うべき巨大な国民軍を作れたからである。

 これに対して、フランス以外の大陸の国々はみな王制であって軍隊も一部の貴族や傭兵によって構成されていたから、ナポレオンの大軍の前には勝ち目もなかった。しかも、それに加えて、ナポレオンという軍事の天才がいたのであるから、まさに鬼に金棒である。

 このとき、イギリスが裏で手を回して、欧州の旧勢力を援助していなければ、ヨーロッパの将来は大きく変わっていただろう。

 これはプロイセンの軍隊も同じで、プロイセンでは日本の武士に当たるユンカーという土地貴族がその主力になっていた。ユンカーたちは自分たちこそがプロイセンの柱石であるという誇りを抱いていたのだが、ナポレオン一人になすところなく敗北を喫してしまった。その衝撃は大きかった。ことにナポレオンが神速と言ってもいいほどのスピードでプロイセン国境を突破した事実にはトラウマとも言える経験をした。

 どれだけ優秀で誇り高きユンカーが揃っていても、ナポレオンという一人の天才に率いられた素人の軍に敗れたのだから、それは当然である。

 だが、そこでプロイセンの軍人たちが得た教訓はユニークだった。いかなる教育を以てしても、ナポレオンのような天才を育てるのは不可能。

 ならば、一人の天才に対抗できる「頭脳集団」を作り、それで仇敵フランスに対抗する──あの敗戦からわずか三年後の一八〇九年、プロイセンはそれまでどこの軍隊も持っていなかった「参謀本部」を創設するわけである。

 それまでの戦争は個々の将軍がそれぞれの考えによって用兵をしていたのであるが、プロイセンは平時から「戦争プラン」、ことにフランスに対する戦争プランを策定し、それを日々、アップデートしていく。

 ことに重要なのはナポレオンとの敗北で得られた「スピード」である。このためにプロイセンは全土に鉄道網を作り、ただちに兵士を移動できるようにした。そして、今度フランスと戦うときがあれば、逆にそのスピードによってフランス軍を粉砕する。具体的にはフランスの弱点である北部国境を怒濤のように突破する。フランス軍がそれと気付く前にパリを占領するのである……。

 この参謀本部の創設は、いわば戦争の歴史における新発明であった。

 以後の戦争は将軍同士の一騎打ちではなくなった。その背後にいる参謀本部の計画にしたがって、前線の将軍はいわば将棋の駒のように動く。まさしく「個の時代」から「集団の時代」への変革である。

 しかも、ドイツ参謀本部にとって幸運だったのが、モルトケという偉大な戦略家が加わったことである。

 モルトケは『戦争論』で知られるクラウゼヴィッツの思想を受け継いだ男だが、モルトケの立案した戦争計画によって、普墺戦争(一八六六年)、普仏戦争(一八七〇~七一年)で赫々たる戦果を上げた。この大成功は、鉄血宰相ビスマルクの優れた外交政策との連係のおかげもあるのだが、普仏戦争ではベルサイユ宮殿で「ドイツ帝国」の成立を宣言したのであるから、ナポレオンに対する積年の怨みをここで晴らしたと言ってもよく、まさにドイツ人にとっては最高の日となった。

 だが、もちろん歴史はそこで終わらない。今度はフランス側が臥薪嘗胆、いつの日かドイツを亡きものにしてくれようと考え、それが第一次大戦、第二次大戦へとつながるわけである。

 というわけで、今回はまるまる一回分、『ドイツ参謀本部』の紹介に終わったのだが、しかし、これを書いたのが自分の担当する渡部昇一先生で、しかもその渡部先生の「本業」は英語学史で、この本はいわば余技で書いたというのだから、私の先生に対する目が一晩で変わったのは言うまでもない。

 「こんなすごい先生の担当だったのか、自分は」と、担当ンヶ月目にして、新米書籍編集者の私はでんぐり返ったのである(続く)。

(『月刊日本』2021年6月号より)

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佐藤眞(さとう・まこと)
1960年、福岡市生まれ。中学・高校は鹿児島ラ・サール学園に通う。東京大学文学部国語学科を卒業後、祥伝社に入社。その後、クレスト社編集長、集英社インターナショナル出版部長などを歴任。現在はフリーランス編集者・作家として活動中。趣味・箏曲演奏(生田流正派)。近著に『薩摩という「ならず者」がいた。』(K&Kプレス)。現代ビジネスに「薩摩・西郷隆盛が元凶…? 新一万円札の顔、渋沢栄一を悩ませた『ニセ札問題』」を執筆。

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