
「こうしてふりかえりは終わってしまった」を読んでみての感想
Summary
先のスプリントで「こうしてふりかえりは終わってしまった」というスライドを紹介してもらった。
プラトー(高原)とかいう停滞期があるらしい。
個人的にはしっくり来なかった。
出典
用語について(生成AIから抜粋)
練習曲線とは、練習による行動の変容過程を横軸に試行回数、縦軸に作業量の測度をとり、描いたグラフのことです。
学習曲線とは、事業活動に関する経験が蓄積されるにつれて、単位あたりコストが低下するという経験効果を表した曲線です。
学習曲線を縦軸を成績、横軸勉強量をグラフにした「学習曲線」の形が高原や台地のように見えるのでプラトー現象と呼ばれます。
プラトー現象とは、学習を続けているにもかかわらず、成長が停滞してしまう現象、その時期のことを指します。
プラトー現象は誰にでも起こると言われており、特にモチベーションに悪い影響を及ぼしてしまいます。
前提
当記事は出典のコンテンツに対して賛否を表明するものでもないですし、内容に対して何かしらの指摘をする意図もないです。というのもそのチームのことを詳しく知り得ないですし、カンファレンスで用いられたスライドということもあって表現の抽象度も高いからです。そのようなわけで、ここから先は、ただただ自分の頭の中で散らばった思考をまとめただけのノートということになります。
しっくり来なかった点
チームにおいて「ある程度の課題が片付いたために停滞していると感じる」という状況自体に共感できない、ということが大きいと思う。
あと、用語の説明にあるように練習曲線とか学習曲線っていうのは個人に適用されるもので、チームとか集団にそのまま適用するのは難しいんじゃないかと感じる。適用できなくはないけども、少なくとも主語を明確にして、適用する際の定義のスコープを明確に定めるべきなんじゃないかと。
チームにおいて停滞を感じているのは誰だろう?というのが一番の疑問で、次いで、そもそもその状況は停滞なのかというのも疑問だったりする。
停滞と捉えてるのはマネージャーや管理層ではないか?
停滞のように見えて、変化は進んでいるのではないか?
何をもって停滞と定義するのか?
チームの運営の話と、個人の主観(=「停滞」と感じている状態)が混ざってしまっているのが大きいのだろうか。
As is To beのモデルが明確になっていたら”改善活動しなくていっか”とはならないはず。
停滞=メンバーの改善意欲がない状態
という定義をすると良いのかもしれない。そうなれば「ふりかえり」の場は無くなるのも当然よね。これが一番しっくり来るかも。
締め
スクラムだと自立的に行動するということが求められると思うのだけど、自立的に改善行動するということへの意欲が低い状況になってしまっていたので、結果的に「ふりかえり要らなくね?」ということに結びつき、問題が表面化したということだろうか。
そうなると学習曲線だけでは説明が難しくなる気もするけども、学習曲線という切り口で見ることもできるよね、という話として受け止めておこうと思う。