「マンボウ」「蕎麦」(2023/12/16)

 寝過ごした。
 慣れない関東の地で全く聞き馴染みのない駅まで来てしまった。
 ひとまず電車を降り、扉の閉まる音を背に聞きながら辺りを見渡す。
 ホームの屋根も柱も立ち入り防止のフェンスも、全て一様のペンキが塗られていて、この駅がつい最近建てられた、もしくは塗り直されたのだろうという見当がつく。
 駅名標もかなり綺麗でどこにも汚れが見えない。
 「はいから町」と書かれてある。

 とにかく、引き返そう。
 私はスマートフォンを取り出して、自宅の最寄り駅までの電車を調べた。
 どうやら約20分に一本電車が来ているらしい。
 駅で待っていても良いが、ただ待つより腹ごしらえでもした方がいいかと町へ繰り出すとする。
 長時間電車で寝こけていたせいで小腹が空いているのだった。

 駅を出ると、その賑わいに圧倒されてしまった。
 出てすぐに現れた商店街は有名チェーン店や、最近オープンされたであろう小綺麗な店がずらりと並んでいる。
 若者からお年寄りまで幅広い層が商店街を歩き、喫茶店で談笑し、活気付いていた。
 私はなにを食べようかと物色しながら商店街を歩く。
 数分歩いたところで商店街の脇道をふと見てみると、ひとつのうどん屋が目についた。
 他に立ち並ぶ店とは打って変わって外観は営業を疑うほどボロいが、確かに暖簾が出ている。
 店先はさほど埃もなく、やはり生きているらしい。
 ここにしよう、とすぐに決心した。
 こういう店は案外地元民に愛される隠れた名店というのが、この世の定石なのである。
 私は建て付けの悪い戸を力に任せて引いた。

 店の中も相変わらずの廃れ具合であった。
 これで経営が成り立っているとは到底思えない。
 並べられた椅子はどれも座布団から綿が見えているし、電灯もついているのか怪しいほど薄暗い。
 店主らしき人物がこちらを一瞥し、ぶっきらぼうに「いらっしゃい」とだけ呟いた。
 とりあえず入り口から一番近いカウンター席に座ることにする。

 客は私を含めて二人。
 室内だというのにロングコートにハットという格好の男が、最奥のカウンター席に座っている。
 コートの男はぼそりと「マンボウそば」と店主に告げた。
 聞き違いだろうか、はたまた自分の知らない名物料理なのだろうか、少し気になるもののわざわざ知らない人に声をかけてまで追求するには至らない。
 ただ店主が「あいよ」とだけ返したところを見るに、何も変なところはないらしい。
 コートの男に続いて、私も注文をせねば。
 駅に着いた時からずっと頭に残っていた言葉がある。
 自分の故郷でよく慣れ親しんだ、あのうどんが妙に恋しくなって。
「はい……」
「はいからはやめた方がええで」
 私が「はいから」と言いかけた瞬間、コートの男がこちらに向かって言った。
 突然の言葉に虚を突かれて私が静止していると、男は続けて言う。
「ここのはいからは不味い。もう戻ってこられへんくなる。やめとき」
 戻ってこれない、とはいったいどういうことだろうか。
 そもそも、この人は誰なんだろう。
 なぜ私が「はいから」と言おうとしたのを予想できたんだろう。
 ふと店主を見るも、無言で調理をしている。
 不味いとまで言われているにもかかわらず、気にも留めていない。
 疑問は尽きないが、コートの男の得も言われぬ気迫に気圧されて私は別のものを注文をする。
「……じゃあきつねうどんを」
 店主がまたぶっきらぼうに「あいよ」と呟く。
 そして間を置かずに、どこからか分厚い茶封筒を取り出してコートの男に渡した。
「はい、マンボウ」
 男はそれを無言で懐に仕舞い、こちらに歩いてくる。
 男は私の後ろを通り、出入り口の扉の前で立ち止まったようだった。
 背後から声をかけられる。
「変なこと言うてすまんな」
 振り向くと、男の真っ黒な革の背中がある。
 男はこちらを見ずに続けた。
「ただ、この店にももう来えへん方がいい。うどんやったら駅前のチェーンとかのほうが美味い」
 そう吐き捨てて男は店を出ていった。
 一体なんだったんだろうか。
 向き直ると、黙々と調理を続ける店主の姿がある。
 最後までこの店を貶して出ていったが、やはり店主が気にしている様子はない。

 少しして、店主が私の前に丼を置いた。
「はい、きつね」
 私は割り箸が無数に差し込まれた箸筒から一膳拝借し、割る。
 その割り箸でうどんを2本ほど持ち上げて、立ち上がる湯気を優しく吹き飛ばしてから口に入れ、思いっきり啜った。
 不味かった。


お題提供:ピカソケダリ メロス(マンボウ)/ポポポ(蕎麦)

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