地球パラボラ説
光が目に向かうことを見るというなら、重力が中心に向かうのだって別の形で見ていると言えるんじゃないか? と、考えてみた。
すると重力はどこから来るのか? やたらめったらな方向を持つように見えるから面倒くさい。ならば重力の始点を一点にまとめて考えればいい。
重力は全て一点から訪れている。
そう考えると重力を持つものその全てが大地だ。
ならば全ての大地が見上げるその一点を天空とでも言おうか。
天地開闢とはつまりはこういう事だろう。
その視点で考えれば地球とは平面のパラボラだな。
見えるものに囚われてはいけない。
見えないものに執着してもいけない。
そう見えようとそう見えなかろうと、どうでもいい。
見えるものだ。見えないものだ。どちらも言葉に過ぎないだろ。
話の聞き方の前提は「全てが正しい」だ。
話が食い違うのは見え方の問題である。人が違えば体験が違い、見え方が違う。だからその人がその考えに至ったのはそれで正しい。
話の食い違う人たちが起こりうる全てを一致させた完全に同じ日常を行ったとしても彼らは同じ体験をすることはないだろう。
話が食い違うのはそれこそ正しい現象だ。
地球平面説を唱える人たちが、地球が球体であることが捏造されているとか、平面地球が陰謀で隠されているとか、話しているようだが少なくとも誰かのせいにしている時点で的外れだ。
そんな自分の都合のいいように動いてくれる誰かなんて居ない。居るとしたら自分で作り出しているだけだ。
少なくともそういう事が起こっているのならそれはそれで正しい。
それをした者の正しさがどうのという下らない話はしない。「正しさ」など無い。「全て正しい」のだ。
その者がその考え方に至ったのが「正しい」のであってそれによって正当化は起こり得ない。全てが既に正当なのである。
正当化するのは迷心しているからに他ならない。
地球が丸く見える写真があるのならそう見えているだけだ。誰かが捏造しなくてもそう見える。肉体のこの目が捏造する。
そして同時に肉体の目で地球を球と認識するのは不可能だ。目で見て収束するのは視認できる半球の部分だけ。残り半球は発散する。
ただし地球はその姿を変えているわけではない。ただ我々にはそう見えるようになっているというだけ。
地球を誤解しているのは我々の方だ。
地球はフラットではないし、球でもない。パラボラでもないだろう。
地球は無い。ボヤッと存在しているだけだ。
それを実体として認識しているのは我々だ。
この肉体だって同じだ。ボヤッと存在している。
そして実体として認識しているのだ。
形を真似ただけでは意味がないという話を聞いたことがあるだろうか? つまりはこういう事なのだ。
ボヤッとが全然違うのだ。目を凝らすな。ボヤッと見るんだ。
とりあえず地球が平面だなんだの話を収める事とする。
宇宙から見ると地球は球であり地上から見るとフラットである。
結局のところ、観測により我々の体験が変わっているだけである。
そしてさらなるトンデモ論を言うと、地球や我々の魂が作った模型を我々の魂に投影したのが目に見える現実であるという事だ。
我々の姿や地球の姿というのは模型の姿を模型の中から見ているという事に過ぎない。つまり見えているものは全て模型でしかないのだ。
模型の機能が心を迷わせる事もあるだろう。誤解することもあるだろう。それもまた体験の一つ。それもまた一興。
妙な事を色々と言ってきたが、こんな事わざわざ知る必要はないし理解しようとしなくていい。知りたいなら知れる。必要なら理解する。
あなたはただ健康であればいい。その為には自分を知ることだ。
現代は心も体も不健康な人が多いように思える。健康であれ。
姿勢を整えて血行を良くする。それが善行だ。
※今、我々は立っている。どれだけ論を重ねようが結局のところ我々が「立つ」という体験をしていることに変わりはない。だから細かいことはどうでもいいのだ。