できないことが嬉しい
去年の年末から、ギター教室に通いはじめて。
最近、ギターを弾くのがぐんと楽しくなってきた。
まだまだ初心者中の初心者ではあるけれど、何曲か弾けるようになって。
課題曲も、指使いも、だんだんと難しくなってきて。
あるとき、ふっと気付いた。
「私、できないことが嬉しいんだ__」
そう、新しい課題曲に掛かったばかりのときは、指の動かし方がまだぎこちなくって。
日々、くり返し練習しているうちに、だんだんとうまくなってゆく。
今日は、コードの切り替えがうまくできなくても。
二、三日後には、不格好でも、どうにか弾けるようになって。
一週間もすれば、音のつながりもなめらかになり、ずっと手元を見ていなくても弾けるようになる。
そうやって、やればやるほどうまくなる。
そのことが、ただただ嬉しい。
嬉しくって、ついついギターに手が伸びる。
そしてまた夢中になって練習していると、いつの間にかうまくなっている。
これぞまさに、“いい循環”ではないですか…。
ならば、長いこと“悪循環”の迷宮にハマり込んでしまっている、物語を書くこととの違いは何だろう?
ズバリ、うまく弾こうと思っていないことだ。
もちろん、うまくなりたいとは思っているけれど、「うまく弾いて先生に褒めてもらおう」なんて、1ミリたりとも考えていない。
弾きたいから弾く、上手になれるのが嬉しいから練習する。
純粋に、やりたいからやる。
これってまさしく私のお手本である、子どもたちのあり方じゃないですか!
あくまで自分主体、人からどう思われようと関係ない。
ただただ楽しいから、時間を忘れて没頭する。
そうか、私、できてたんだ。
ずっと、ギターでは子どもと同じように、できてたんだな。
じゃあ物語を書くときも、デザインするときも、ものをつくるときも、同じようにやればいい。
「うまくやって、人から認めてもらおう」なんて、そんな気持ちは必要ない。
ただただ純粋に、「やりたいからやる」でいい。
なのに私、どうして“こうじゃなきゃいけない”ばかりを、こんなに積み上げてきてしまったんだろう?
いや、過去のことなんてどうでもいい、重要なのはこれからだ。
とりあえず地道に自動処理システムを解除していったら、その後はギターを弾いてるときの自分を手本に、純粋な欲求に従い、やりたいことだけやっていこう。
そして子どもたちと同じように、いつも目をキラキラさせていよう。
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