キタ━(゚∀゚)━!
まだまだ、私の中にメンタルブロックはいくつも残っているけれど。
それでも、最も影響を及ぼしていたものが解除されて。
とうとう来た! 待ちに待ったこの感覚。
「どんなことが起きようと、別にどうってことないやぁ」
これまで大事だと思ってきたこと、たとえば「いつでもきちんとしてなきゃいけない」とか、「生産性のあることをしてなきゃいけない」とか。
もう別に、どうでもよくなってきた。
人の視線を気にし、認められるように行動しなきゃと自分を追い詰めてきた昨日までの私が、なんだか可愛らしく感じちゃうくらい。
さらに極言してしまえば、明日死のうが生きようが、別にどっちでもいい。
だって私もあなたも彼も彼女も、存在していると思っていること自体が、すでに錯覚なんだから。
うーん、ここはいろいろ、表現のしかたがあるよね。
非二元では「私はいない」だし、スピ的にいえば「ワンネス」で、「自由意志は存在しない」って言い方をしてる人もいる。
どれもこれも同じことを言ってるんだけど、三次元思考の刷り込みツールである言葉では、そのものズバリを表現することはできない。
それ以前に、どこに視点を置くかによって、見えかたもぜんぜん変わってくるしね。
とにかく “生きる” も “死ぬ” も、三次元的な “状態” でしかなくって。
私たちの本質にとっては、どっちだって変わりない、というか…。
存在のしかたは変わるけど、それだって「ごっこあそび」の中の話でしかなくて。
私たち全員の大元である “唯一の意識” は、永遠にあり続けるわけ。
何もないけどすべてある宇宙の中で、満ち足りた状態で、ただ “ある” 。
それが、私たちだってこと。
うーん、頭で考えるんじゃなく、こころで感じてみて。
そうすれば、エッセンスだけは伝わるかも。
とはいえ、かくいう私も、やっとシッポの先っちょを捕まえられただけで。
気を抜いてるとすぐ、不安にとらわれて、三次元に戻ってしまう。
でも、それでいいんだと思う。
よく分らないけど、仮に三次元と五次元があるとするならば、私たちはいつも行ったり来たりをくり返してて。
思考が軽くなって振動数が上がれば、風船みたいに飛んでってしまって、三次元には留まりにくくなるし。
重い思考で一喜一憂してたいときは、なかなか五次元にまで飛び上がれない。
ただ、それだけのことなんじゃないかな。
だから別に、三次元だろうと五次元だろうと、どっちにいたって別にたいしたことじゃない。
ホント、やりたいようにしてりゃいいってだけの話なのですよ。