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“なり”の自分

もう、つくろわずに正直に言うけど。

いまの私は、スピリチュアル的なものごとのとらえ方が、とってもしっくりくる。

というのも、相手が誰か分らないし、知る必要すらないけど…。

人間特有の二極思考を超えた、もっと上の視点からのサジェスチョンが降ってくることが、実際にあって。

いまの私は、ほぼ100%それに従って動いているから。

でもそれって、ホントに、とらえ方の問題であって。

一時期ずいぶんあちこちで取り上げられた「アドラー心理学」は、ある意味、スピリチュアルな視点を心理学として表現したものだと私は思ってるし。

自己啓発と言われているものは、ビジネスや生き方に絞って、スピリチュアルを語ったものじゃないかと思うし。

まぁ、このイメージが強いからうさんくさいと言われちゃうんだろうけど、宗教だってたいがいは同じことを言っていたりする。

さらには、量子力学を使って、スピリチュアルを説明することだってできちゃう。

つまり上記のどれもが「この世界の本質」という、言葉では語ることのできないものを、それぞれの視点からムリやり語っているに過ぎないってこと。

で、その中の、スピリチュアルっていう目に見えない存在を肯定する視点が、いまの私の肌には合うのですよ。

というか、その視点からの理解で動いてみて、うまく行ってるってこと。

ホント、ただそれだけのこと、なんだけど。

これまでの私は、それがバレてしまったらヘンな人に思われるかも、と…。

スピリチュアル的なことを書くときには、ずいぶん身構えて、ドキドキしながら書いていた。

いまこれを書いていても、その傾向は、消えてなくなってはいない。

でもね、もういいやと思って。

“なり”の、まんまの自分でいいや、って。

そうそう私、カウンセラーからADHD傾向が強いって言われたんだけど。

そんなことまったく頭になくって、というかADHDのことも発達障害についても、よく知らなくって。

でも、本買って読んでみると確かにそう、納得するしかなかった。

人の話聞いてても、気になることがあるとそこで止まっちゃって、その先の話が耳に入ってこなくなっちゃうし。

フツーなら目も向けないようなことが気になって、どんどん突っ込んでいっちゃうこともよくある。

ただ、ADHDって、なんと言っても“障害”ですからねぇ。

前の私だったら、やっぱり間違いなく隠そうとしたはず。

でもいまは私、自分の発達障害的傾向が、いちばぁんスキだったりする。

だって、それがなかったら明らかに、いまの私はいないもの。

隠すどころか、声を大にして言いたいくらい。

こんなふうに、“なり”の自分でいたほうがラクだし、健康的だよね。

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