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自分だけは疑わない

“信じる”ってもしかして、「疑わない」ってことと、同義なのかな?

考えてみると私、子供のころからすごく慎重だった。

母親がどんなきっかけで激昂するか、分らなかったから。

「これを言って大丈夫?」

「こういう言いかたをしたほうがいいかな?」

「ホントのホントにこれで怒鳴られない?」

そんなふうに、何を言うにも、何をするにも慎重にならざるを得なかった。

確かに、その傾向は大人になってからも、ずっと継続してたな。

とてもじゃないけど“思い付いたまま行動する”なんて、恐くてできなかった。

ああ、そうね。

私、すべての外部からの入力を、無条件にまずは疑ってきたわけだ。

その悪癖が、いまも続いてるんだなぁ。

自分の中から自然とわき出た欲求も、行動に移す前に、まずは“疑い”行きのベルトコンベアーに乗せてしまう。

で、そのラインはいま、超自我へとつながってるってことよね。

「やるだけムダでしょ、そんなの」

「そんな軽々しく始めちゃっていいわけ?」

「どうせ失敗して、ヘコむくせに」

そうか、超自我を黙らせることにエネルギーを注ぐ前に、何でもコンベアーに乗せちゃうクセを改めればいいのかも。

つまり、“自分を盲信する”ってことよね、ある意味。

自分の中からわいてきた欲求や興味は、疑わなくていい。

エビデンスを求める必要は、まったくない。

__なんか、思い出した。

幼いころの私は自分の興味にとても忠実で、いつもいろんなことに目移りして、夢中になって。

そういうところが、母親にはうとましかったんだと思う。

私を感情のトイレとして使いはじめたきっかけは、そこだった。

だから私は、自分の興味にフタをして。

意識を常に、ピンと張って。

ビクビクと、紫色になった唇を震わせながら、母親と接するようになったんだ。

自分を信じることなんかより、いかに母親に怒鳴られないようにするかのほうが、ぜんぜん大事だった。

“できてないこと”に自然とフォーカスしちゃうのも、サバイバルのため。

母親が帰って来るまでにすませておかないと、問答無用で攻撃されるから。

そのツケが、いまごろになって回ってきてるってことね。

でも、いまの私にはもう、脅威はない。

だから今日、いま、ここで。

自分を盲信すると、決めよう。

他の誰を、何を疑っても。

自分だけは、疑わない。

もう、二度と。

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