解釈しない
だんだん自分ってものが、分ってきた。
なんというか、自分で思っていた以上に私の“人生”ってコンテンツは、ギリギリの崖っぷち設定だったらしい。
そんななか、病気もせずに生きてこられたのは逆にすごい、と思っちゃった。
でも確かに、その元凶となった人物はすでに墓の中なわけで。
いつまでも、しばられている必要はない。
長らくずっと、離れた存在だった“自分”が、ようやく身近に感じられるようになったわけだから。
自分から空け渡しでもしない限りは、奪われる心配なんて、ないんだよ。
だから、人を敵と思う必要はないし。
人といても、自己評価を下げる必要はない。
一人でいるときと同じようにちゃんと、自分ができたことを認めていいんだよ、ってことね。
そもそも人生って、映画の中の話に過ぎないわけで。
結局また私、登場人物になっちゃってたわけよね。
なかなか、観客席に落ち着いて座っていられない。
特に人と関わる場面では、起こることを“真実”と捉えてしまいがち。
落ち着いて、俯瞰して見ることができなくなっちゃうんだね。
疑心暗鬼になっちゃってるから、起こったことを起こったままに捉えられず、反発したり、焦ったりしちゃう。
さらに、終わった後に解釈しようとして、余計なエネルギーまで使っちゃう。
そんなことする必要、ないんだ。
「こんなことがありました」って事実だけを、そのまま、解釈せずに受け入れればいいんだね。
「こんな経験ができました」ってことが、何よりのごほうびってこと。
そうそう、苦しくっても、悲しくっても、辛くっても、楽しくっても。
それは同じ“経験”であって、それ以上でも以下でもなく。
いいも、悪いもないのだよ。
そこに解釈を加えようとしちゃうのは、私のやっかいなクセ。
だから、もうやめなさいって、言われてる。
ただの経験に対して、判断するな、解釈するな、ランク付けしようとするな、引きずるな、満足して寝てしまえ。
そういうこと、ね。
少なくとも、いま現在は分りました。
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