許容する
昨日、久しぶりにカウンセラーと話して。
どうしてこれまで生きることが苦しかったのかが、よく分りました。
私、間違いなくこの肉体を持って、三次元に生きてるにも関わらず。
どうやら「世間」や「社会」といったものの言うなりにはなるまいと、常に反発してきたようなんです。
「世間なんぞに、丸め込まれてなるものか」って、感じでしょうか。
他人ごとみたいに書いてますけどこれ私、自覚なくやってたんですよねぇ。
一方で社会人として「周囲に合わせなきゃいけない」と自分を縛りつつ、いわゆる「長いものに巻かれる」のが許せなかった。
ここでもまた、アンビバレントな状態で生きていたわけです。
それにしてもまぁ、私という一個人の中にいったい、どれだけのアンビバレントが存在していたのでしょう?
そりゃ、生き難かったわけです。
いまの「何でもいいやぁ」状態との落差に、目がくらんでしまうほどです。
元々これって、親に対する反発心から派生した価値観だと思うんです。
つまり「親の言いなりになってなるものか」っていうメンタリティですよね、これを社会に至るまで反映させてしまった。
たぶん親から大人たち、大人たちから学校などの組織、そして組織から社会へと規模を拡大させていってしまったのだろうと思います。
結局、元はといえば子供時代に原因があるんですよねぇ。
これは私だけでなく、おしなべて人という存在に共通した傾向なんだろうと思います。
実際、これを前提としたカウンセリングで私自身が変われてきたので、間違いないと思います。
で、許容ワクが増えたいまの私の目から見ると、かつての私の社会への反発は、最終的に完璧主義にまでつながっていました。
「世間に飲み込まれずに生きるには、不完全であってはいけない」という理屈です。
ところが、これがまた、三次元への挑戦とも取れるような考えかたなんですよ。
なぜなら、身体を持って「実在」するためには、「不完全」でい続けることが条件だから。
これはねぇ、もう条件設定だから、私たちにはどうしようもないことなんですよねぇ。
なのに、設定に対してまで反発して「完璧でいられないのなら死んだほうがマシ」くらいに本気で思ってました。
だからいま思うと、私にどうしても必要だったのは「許容」だったわけです。
許容ワクを増やすことが、私の唯一の生きる道だった。
正直、半分あきらめていたくらいです。
そんな私を救ってくれたのは「存在こそが唯一の圧倒的善である」という、理解です。
これはねぇ、どっかの本に書いてあった言葉ではなく、私の中から湧いてきた言葉なのですが。
「この人が今日このときまで生きてきた、そのこと自体に何よりも価値がある」ってことです。
当然、「この人」には自分自身も含まれます。
なぜなら自分の存在価値を認められない限り、人の存在価値も認められないから。
そう、ありのままの自分を生きるためには、自分という存在を余さずまるごと認めることが入り口なんです。
それさえできれば、八割がた終わったも同じです。
あとは人間だけに限らず、生きているすべての存在に対して、同じことをすればいいだけですから。
ホームページをつくったので、ぜひ見てみてください。
お気軽にコメントなどもいただければ、うれしいです。
寒さに負けず、元気に過ごしましょうね!