“なくてもいい”を手放す
日常使いのメガネが、真っ二つにぶっ壊れて。
フォーカスが合わない状態を、受け入れることにした。
というのも、ほぼフォーカスのきてない状態でもなぜか本は読めるし、文章も書ける。
外を歩いても、車の影を見逃すようなことはないし、人が近付いて来るのを感じ取ることだってできる。
「なんだ、まったく困らないんじゃん」と、気付いたから。
さらに私、生きるうえで“見る”ことに対して割いているエネルギーが大きすぎると、常々感じていて。
つまり、意識を向けたものにフォーカスを合わせようとすることで、まんべんなく“全体”を捕えようとする意識がおろそかになってしまっているように思えて。
カウンセリングが進み、俯瞰して全体像をつかむことの大事さを知れば知るほど、「しっかり見ようとすること」に対して割くエネルギーは最小限でいいんじゃん、と学ぶことができたので…。
だったらメガネが壊れたのを機に、ぼやけて見える世界を受け入れてみようと決めたわけ。
とはいえ、もちろん困るときもある。
デザインしてるときには、ツールバーの中身がしっかり見えていないと困るし。
実はいま、短期間限定で三味線を習っているのだけれど、座っている畳の上に置いた楽譜はぼやけてしまって見えない。
だからそういう、必要なときにだけ、掛けるようにして。
メガネなしで暮らし始めて10日ほど経つけれど、快適に過ごせている。
メガネだけに限ったことではなく、いまなんだかそうやって、自分からなくてもいい“こと”や“もの”が、どんどん剥がれ落ちていっている感じがする。
なくなるっていう形で、強制的に退場していくこともあるし。
「こうするもの」って社会通念のようなものに疑問を持って、自分から手放すこともある。
逆に何かを手放したことで、それを補うために使い始めたものも、わずかではあるけれどあって。
考えてみたらカウンセリングで、メンタル的にも、同じことをしてきたんだよなぁ、と。
いずれにせよ、いい意味で私、シンプルになってきているのかもしれない。
知らずしらず、いらないものを身に付けてることって、たくさんあるよねぇ。
でも、なくてもいいものはもう、持ってる必要ないや。