「隠れ虐待」の記事に対してひとつだけ 2019/2/25
「隠れ虐待」と称した記事を挙げました。
完全に私のもとを離れ、たくさんの人がご意見ご感想を投稿している。
私が何を言ってもという状況だが、それに対して、一つだけ、一つだけ気になることをひっそりつぶやいていく。
「毒親」というのはあくまで文章の枕として使っただけで、私は親を「毒親」だと思っているわけではない。自分の親のことを毒親だとも思っていないし他のなにとも思ってない。そういう一人の人間、と思っている。
親は「毒」ではない。「他人」だ。
一緒に暮らしてきた、関わりの深い他人。
「毒」なのだとしたら、私も、あなたも、大なり小なり例外なく他人とって毒だ。
親であろうが他人。
一人格と一人格が一緒にいれば、必ず何か摩擦を起こす。
どれだけ仲がよくても、合わないところ、自分と違うところ、理解できないところ、勘にさわることがある。
とても極端に言えば、「毒親」があるなら「毒子」「毒夫」「毒妻」「毒彼」「毒彼女」という言葉もあってもおかしいとは思わない。
じゃあ、それでもなんで一緒にいられるかというと人は人を「受け入れ」「許す」からだ。
無意識に受け入れ許し、受け入れられ許されているだけで、
人にとって他人は少なからず毒であり、その逆もしかりだ。
どれだけ近しくても、人をどれだけ受け入れ許せるかの裁量は、その人次第で大きく変わる。
受け入れる幅が大きい人と小さい人と、気分次第で変わっちゃう人と、そもそも興味のない人と、いる。
私の母も、
あなたも、
私も、
どれだけ相手を思って、
どれだけ相手のために生きても、
それは毒になりゆる。
親ににされて勘に触ったこと、
許せないこと、
トラウマになったこと、
こういう思いをしたことがある子供の親がみんな「毒親」とくくられてしまい、
逆に「毒親」という言葉だけで済まされてしまうことは危ないことだと思う。
子と親以前に人と人。
今回のことで言えば、
親が子という他人に期待しすぎてしまうように、
みんな親という他人に期待しすぎだ。
私は子と親以前に、母としている一人の人間との人間関係に問題があり、
うちは家族という以前に、一つの集団として問題があった。これを忘れたくはない。
だから私は虐待されていたことをアイデンティティーにして生きていったりはしない。
私はそう、というだけ。
気が向けば泣きはするが、あの頃辛かったと言えなかったから今吐き出す!とかに膨大な力を使う前に、したいこと考えたいことが山のようにあるのだ。みんな私のこれからのため。
人に「潰れるから吐き出せ」「このままだと未来が危ない」「書けた次のステップに」「きっと末路はひどい」などと言われても、私は自分が作ってきた楽しい毎日をこれまで通り続けて、もっと幸せになることしかしない。
親親言っちゃいけいけないとは思わないし、
私は、過去を言い訳にするのはダサいと、思っているだけで、
過去を言い訳にすることはダサいことではない。人の人生にダサいもなにもない。
書いた通り、私がそう思ってる、そう生きてる、というだけです。
「親と子」
「先輩と後輩」
「男と女」
みんな等しく、ただの人と人だ。
これは私の生きていく中でとても重要な考え方。
どんな関係を持っていようと、誰でも一人の人として良好な関係を築きたいものです。
記事を読んでくれた皆様、ありがとうございます。皆様に幸大からんことを!