劇団員インタビュー(6)植村純子×渡邉裕史
9月某日 AKIKANにて
インタビュアー:渡邉裕史(KAIKAスタッフ/KAIKA劇団 会華*開可)
旗揚げからのメンバーである、植村さんにインタビューしてきました。お話の中には、固有名詞もたくさん出てきますが、これまでのインタビューでも登場しているものがほとんどなので、註釈はなるべく割愛してます。ぜひほかのインタビューとも合わせて読んでみてもらえたらなぁと思います。[渡邉]
旗揚げから
渡邉:本日はよろしくお願いします。植村さんは、旗揚げから(のメンバー)ですよね。…てことは、蓮行さんとの出会いは、それより前なんですよね。
植村:大学に入って、今の「劇団ケッペキ」(※京都大学の学生劇団)の前身である「潔癖青年文化団」に入ったので、(蓮行は)そこにいた先輩でした。
渡邉:いろんなところで聞かれているとも思うんですけど、「潔癖青年文化団」に入らはったきっかけを聞いてもいいですか?
植村:私は、中学校から演劇部をやってて。高校から女子校に行って、そのまま内部進学で大学に入ったので、自分ところの大学のサークルに入ると女の子ばっかりになるし、高校の時はそれでやってたから、大学では「男の子もいる劇団に入ろう」と思って。それで、よその大学の劇団を探そうと思っていたところ、入学式にチラシを配って来たのがそこ(潔癖)だけだったからです。
渡邉:あぁ、入学式で配ってたんですか。
植村:入学式にいろんなサークル勧誘のチラシが配られるのって、今はそんなにないの?
渡邉:どうなんでしょうね。
植村:(当時は、)いろんな大学の入学式にチラシ配りに行って、メンバー募集するのは、演劇だけじゃなくどのサークルもやってることだった。自分の大学の学生しかダメですっていうサークルは別として、そうじゃないところはチラシをまいてたと思う。
渡邉:確かに、今でもいますね。例えば、立命館の月光斜に所属してますけど、大学は別のとこですっていう人。(京都の大学生には)文化としてあるんでしょうね。僕は、大学は大阪でしたけど、そういうのはなかったですね。
植村:大阪はないのか…、京都は普通にあった。入学式の時期は、今日は京大、明日は立命、その次の日は同志社…とか、チラシ配りに行ってた。新歓公演の宣伝と入団募集のチラシを配りに入学式に行くもんだったよ。
渡邉:それは、衛星としても行ってた?
植村:衛星も行ってたよ。
(ここから、過去チラシや年表などを見ながら、歴史を紐解くように、お話を聞いていきました。)
渡邉:(チラシを見ながら)初期の頃からそこそこの劇団員がいるんですね。
植村:どの人がどのタイミングから劇団員かって言われたら、また微妙なんだけど…。大学でお芝居をしていて、卒業して、自分たちの所属劇団を引退するやん、そのあと(劇団衛星に)正式所属になる、みたいな感じが多かった。
渡邉:あー、結構、客演から団員になる人が多いんですね。
植村:そうそう、結構いる。岡嶋、チャック、黒木は最初から(衛星に)入って来た人たちで、…岡嶋はもともと未踏座(※龍谷大学の学生劇団)とかけもちやったけど。あとは、田中遊とか駒田大輔とか、客演でよく出てくれていてその後入った形やね。結構ずっと長い間、客演だった人もいたりする。首藤くんもそうだったしね。
『千年王国(の避難訓練)』(※初演)の時に、「最ハンサム劇団」というキャッチコピーを使ってたけど、その頃…2000年前後の頃は、みんなが劇団員になっていた時期やと思う。この頃がコアで活躍している劇団員の数が一番多かった時期やね多分。
渡邉:客演さんが多かった時って、キャスティングは、どういう感じでしてはったんですか?
植村:基本、蓮行が全部決めてたかな。当時はそんな、プロデューサー制じゃなかったから。…ていうか、私がプロデューサー的なことをしているのは、最近の話なので。
渡邉:衛星のプロデューサーは、歴代に何人かいましたよね?
植村:橋本裕介くんがプロデューサーだった時代がしばらくあって。劇団員でプロデューサーだったのは、橋本くんだけかな…。あ、亀ちゃんがいるか。亀本伸彦くん。“プロデューサー”じゃなくて、“制作総指揮”って名前を使っていたと思うけど、亀ちゃんが最初かな。
当時、公演の外枠作りみたいなことは亀ちゃんがやっていた。橋本くんは、割と“プロデューサー”っていう感じのことをやってたと思うけど。ただ彼はそこから、本人がインタビューで言ってたように、作品創りより集客とか人に広めるというところを中心に担っていった。(彼らが劇団を離れた)その後は、原田(拓郎)くんにしろ、あごうちゃん(あごうさとしさん)にしろ、公演単位のプロデューサーはいたけど。彼らには、劇団としてこの先どうするっていうことをではなくて、あるひとつの公演を成立させてくださいっていう形でお願いしていた。
原田くんに(『第五長谷ビルのコックピット』のプロデューサーを)お願いする時、これは私、はっきり覚えてるんだけど、「“成形”してください」っていう言い方でお願いした。蓮行を中心に、こういうことがやりたいっていうのがいろいろあって、それを形にして公演として成立させてくれって。劇団員でない人にプロデューサーをお願いする時は、そういうオーダーをしてきてたと思う。
植村さんと劇団衛星
渡邉:植村さんの、(衛星への)関わり方には、変遷はあるんですか?
植村:私ね、最初は、クレジットとしては“演出補”だった。まあ、蓮行のアシスト全般ですね。当時のチラシには、“演出補”って書いてると思います。
渡邉:実際には、劇団のマネージメントも常にずっとしつつなんですよね?
植村:うーん、まぁ劇団のマネージメントかはわかんないけど、99年2月に「如意プロデュース」を有限会社にした時に役員になって、経理担当になったので、そこから、会社のマネージメントはしてる。ただ、劇団運営をどうしよう…だったりは、必ずしも私がしてない、と思う。
渡邉:植村さんがクレジット変わるタイミングって、どこらへんですか?
植村:どこでしょうね〜。(チラシをめくりながら探しつつ)ああ、初期の頃は、あまりチラシにスタッフ書いてないね(笑)。(さらにチラシをめくりながら)ああ、あまきぎんさんが制作やってた時代があるね。彼女は、潔癖から一緒の人です。潔癖の、蓮行の同期で。
渡邉:旗揚げから一緒なんですか?
植村:うーん、旗揚げから劇団員だったか…な、たぶん。役者で、制作もやってて。あと亀ちゃん(亀本伸彦さん)と西川まゆさんが、この2人が「フリンジシアタープロジェクト」の前身にあたる「京都ライトシアタープロジェクト」の立ち上げメンバーなんだけど、そのへんが制作をやっていた。
『水龍の纏』(のチラシ)には、あごうちゃんがプロデューサーやけど、「制作:京都ライトシアタープロジェクト」で、あまきぎんと黒木さんの名前が入ってるね。この辺の公演は、宣伝系は亀本くんが仕切ってて、公演をつくる全体像は、あごうちゃんが仕切ってたんだと思う。
渡邉:それが何年くらいですか?
植村:この公演が、98年6月。(旗揚げして)3年目、まだ最初の頃やね。会社つくるのと同じくらいの時期に、「ライトシアタープロジェクト」を立ち上げた。その頃は、経理的には如意プロデュースの一部門みたいな形で、衛星とライトシアタープロジェクトがあった。屋号は別やったけど。
(さらにチラシをめくりながら)OMSで公演をしたくらいの頃から、劇団赤鬼(※神戸の劇団)とか劇団☆世界一団(※大阪で活動していた劇団。現・sundayの前身)との交流が始まり、私はよく、赤鬼さんとか一団さんのところに遊びに行ってたな。入り浸ってたよ。一時期、一団や赤鬼の公演の時には、基本的にほぼ全部、受付スタッフをやらせてもらってた。
渡邉:今でもそうですけど、(衛星の中で)植村さんが、一番外部との接触が多い人ってイメージありますよね。
植村:人と会うの、好きなんでね。
渡邉:団員の中で、圧倒的にそうな気がしますね。今のメンバーで考えても。
植村さんの中では、この劇団とか、この人に影響を受けたとかあったりしますか?自分のスタンスとしてでもいいですけど。
植村:もっと遡ると、高校の時には、私は、夢の遊眠社と第三舞台を観てたんですね。彼らは大学で演劇を始めて、そこから大学を出て劇団としてやって行ってた。なので、私は、大学に入って劇団に入ろうと思ったんよね。当時から、演劇をずっと続けたいと思っていたけれど、そのやり方として、大学で劇団に入るっていう方法を選んだのは、当時の影響だと思う。「劇団としてやる演劇」にこだわってるのも。
渡邉:なるほど、高校の時の。いい時期ですもんね。
転換期1
渡邉:植村さんにとって、劇団衛星20年のなかで、転換期になったなと思う、きっかけのところはありますか?
植村:広い意味では…、長谷(※『第五長谷ビルのコックピット』)かな。『コックピット』の初演から長谷までの間くらいは、ひとつの大きな転換期ではあった…、それはいろんな意味でね。コックピットの初演終わりで、何人か(劇団員が)辞めてる。それが、プロになるかならんかの1年〜2年の話でもあって。年齢的にも主要メンバーが30歳になるくらいの頃で。メンバーもそれぞれ、プロになるのかならないのかを考えた時期だった。それが、2003年から2005年の間くらい。
渡邉:なるほど…。
植村:私的な転機としては…。ちょっと、いい話するね(笑)。小島くんのインタビューにも出てたけど、『長谷ビルのコックピット』をしている裏で、(『珠光の庵』の)学校公演をやったんですね。私は、長谷ビルでの公演の方についていたので、その稽古にはほぼ行けてなかった。で、本番の前の日くらいに稽古を初めて観て、そしたら、ほっといてもみんながちゃんと作品を創ってきてくれていて…。その時、私はこの劇団員たちが大好きだって、信頼できる仲間だって、心から思った。そこから、みんなを大切に思うようになった。
それまで私は、「蓮行さん」っていうアーティストが好きで、蓮行さんと一緒にやっていく、そのために劇団衛星があった。蓮行と演劇ができればなんでもよかった。…んだけど、多分その瞬間から、劇団員のみんなを愛するようになった。「劇団衛星」が大事になった。
長谷の公演はいろいろ大変で、恨みもいっぱいあって、愚痴をしゃべり出したら1時間はしゃべれるくらいあるんやけど(笑)、逆にそういう、いい話もある。
渡邉:植村さんが現場にいなかったのは、教育実習に行かはった時くらいですか?(※植村注:『宇宙巡査部長ガリバン』の時。大学4回生だった植村は、教育実習で公演期間、会場にいませんでした。)
植村:教育実習の時は、公演本番にいなかったけど、あの公演は、稽古期間は行ってたよ。
渡邉:そうか、このパターンと逆ですね。
植村:逆やね。稽古には行ってたけど、仕込みに入った段階で手放した。「あとはよろしく」って。
渡邉:そこまできたらね、(大丈夫ですよね)
植村:いやいや。(京都大学の)文学部の中庭でやってる公演だったから、現場に入ってからでないとわかんないことも多くて。しかもそんなところを無理やり使わせてもらってやってるわけだから、夜中しか作業や稽古ができない。基本的に昼間はブンピカ(※文学部学生控え室)の中で細々とした作業をしつつ、夜に稽古とか仕込みをするっていう公演だったから、あれ。現場の様子は、小屋入りしたあとの夜中にしかわからない。(なので、私は一切見てないのです。)
渡邉:この辺の話は、蓮行さんのインタビューで出るんかなぁ。何でそんなところでやっていくことを選んでるのかとか…。
植村:おもしろいからでしょ。だって、おもしろいやん。『ガリバン』という作品は、その後も何度か再演してるんだけど。いろんなところでやる中で、台本も多少変わっていってるんやけど、『ガリバン』の初演にやろうとしたことを、もう一回本当にやりたい。私が、衛星のこれまでの作品の中で、再演したい作品のうちのひとつが、『ガリバン』初演ver。これを今の技術と、金の力でやりたい(笑)。
渡邉:それは、野外でですか?
植村:野外、かな〜。空見えた方がいいね。やりようによっては、劇場でも、そういう雰囲気を再現できるかもしれないけど。
転換期2
植村:転換期のことを考えると…、あとは動員数のことかなあ。旗揚げして最初の5年くらいが、衛星がどんどん動員を伸ばしていった時期だった。一番最初の(本公演であった)『総理・保科仙吉』の段階で、300人以上の動員ができて、「ああ、ここまできたね…」みたいな感慨があった。それは、潔癖時代というか、劇団つくる前からの流れがあって、『保科』でお客さんがいっぱい入って、ちょっとひとつ(段階が)あがったねっていうのと。
次は、OMSアクトトライアルの『(脳天気番長)出馬する』の頃かな。『出馬する』自体も、たくさん来てもらえたのやけど。その前の月に、プレ公演として、シリーズ前作をNF(京大学園祭)で上演して。その時は、(NFの演劇企画の)プログラムの都合上、朝の早い時間の開演やった。集客的には厳しい条件だったんだけど、開場前にお客さんがだぁーーって並んでて。そういう、(お客さんに)求められてる感があったなあ…という記憶は、その時と、アートコンプレックス1928の杮落しで、劇団HANAFUBUKIと衛星が、杮落しプログラムの若手部門で公演をしたんだけど、両方ともアーコンの前に人がずらーって並んでいたことですね。
(※植村注:劇場の周りに入場待ちで並んだお客さんを誘導しながら、演劇がマイナーだと言っても、ここにこうして200人もの人が集まってくれてるじゃないか。それをもっと知らしめたい!…と、街中の劇場で思ったのを覚えている。それがかなり、私の原点です。)
渡邉:その様子を見てみたかったですね。今では見ないですね。
植村:その頃は衛星だけじゃなくて、アートコンプレックスでも、赤鬼とか一団を手伝いに行ったHEPとかKAVCとかでも、開場前にお客さんを並ばせるというのは(私もスタッフとして)すごいやっていたので。その頃は多分、衛星だけということじゃなく、みんな、実際にお客さんを呼んでいたし、お客さんを多く呼ぶってことにがんばっていた時期だったんだと思う。
(次にどの辺の話を聞くといいか、過去チラシを見ながら探しつつ)
渡邉:この辺のことしゃべってる人、少ないんちゃいます?衛星歴10年から13年くらい。
植村:長谷をやった後ってことか…(チラシを見ながら)。
渡邉:今のメンバーが固定になってるんですかね?
植村:ファックさんが入って、一番たくさん役者が所属している時期があり、『千年王国(の避難訓練)』とかがあり、「よしもとrise-1シアター(※かつて、梅田にあった劇場)」ができて。…あ、rise-1シアターで過ごした数年間、というのも(衛星の歴史の中で)ひとつあるね。
渡邉:そこでも結構(公演を)やってるんですか?
植村:rise-1シアターで、衛星の公演自体はそんなにやってないねん。衛星の公演は1つくらいしかないねんけど、(劇場の)スタッフとして関わってたの。
rise-1シアターは、吉本興業が手がけた小劇場で、初めてそれを始めるっていう時に、(劇団赤鬼プロデューサーの)高見(健次)さんが相談を受けて、その頃関西でがんばっていた劇団のみんなが、サポートみたいな感じで関わっていた。
うちは会社だったから、会社同士の契約のような形で参加して。rise-1シアターのスタッフとして扱ってもらっていた。提携スタッフみたいな感じで。rise-1シアターでのいろんな劇団の公演を、劇場のスタッフとして手伝って、その公演の打ち上げにも行ったりとかしていたので。だから、私の劇場運営の基礎は、rise-1シアターです。
渡邉:あー、そうなりますね。
植村:劇団さんとの関わり方も。rise-1シアターも小劇場の運営をやるのが初めてというところだったから、いわゆる劇場の通常のやり方とかも知らないので、本当に(劇場と劇団と)一緒に創っていて、打上にもrise-1シアターの支配人まで一緒に行く、みたいな。そんなノリの劇場だったから。劇場を使う劇団さんとのコミュニケーションの取り方とかは、私のは多分、rise-1シアター仕込みだと思う。
渡邉:公演の頻度は、毎週やってましたよね。
植村:やってたやってた。私たちはシフトで交代で入る感じで。吉本の、メインのスタッフさんたちも数人いて、私たちは、サブスタッフみたいな感じで声かけてもらって、入った日数分のギャランティを会社にもらう、という感じでやってました。
渡邉:そういう仕事もあったんですね。植村さんは、初期から、赤鬼とか世界一団とか、外の現場との関わりも多いですね。
植村:衛星だけやってたらしんどくなるやん(笑)。外に息抜きに行ってましたね。
渡邉:息抜きになるんですね?
植村:違う刺激をもらえると楽しいからね。遊びに行く感じで行ってたよ。
転換期3
渡邉:(劇団以外の)外の仕事が、今でも色々ありますもんね。
植村:フリンジシアタープロジェクトでも、衛星以外の仕事がわぁーって増えたからね。
その他の外とのつながりとしては…、2006年に「PmP2006」というのがあって(※植村注:fringe主催。東京で各地の制作者が集まる勉強会が行われて、植村はそれに参加しました)。その年は、蓮行が文化庁の国内研修で平田オリザさんに師事をした時期でもあった。蓮行はそこでオリザさんを師に、劇団と劇場の運営みたいなことを学ぶ。アゴラ(※駒場アゴラ劇場)に行ったり、全国の劇場の事例を視察に行ったりしてた。そういう、蓮行のルートと私のルートがそれぞれで全国各地とつながるっていう時期が、2005年から2007年くらいの間にあった。
それは、2004年に『珠光の庵』の上演を始めて、この作品を47都道府県回そうぜって考え始めたタイミングだった。当時、そんなに明確に意図してやっていたかはわかんないんやけど…。PmPに行った時に『珠光』の企画書を渡して、いろんなところに行きたいですって言った覚えはあるから、そういうつもりは確かにあったんだけど。そういうことをし始めたというのが、ひとつの転換期だったかもしれない。私個人的にもだし、劇団の歴史的にも、多分2005年くらいにそういうタイミングがありましたね。
渡邉:今となっては、(劇団衛星は)全国各地でやるイメージが、僕は関わってからはすごいありますよ。僕が(衛星に)関わったのが2010年、KAIKAの杮落しの『ブレヒトだよ!』からですから。…ここ最近の転換期は、KAIKAができたことですか?
植村:KAIKAが出来たというか、事務所がこっちにきた時だと思う。KAIKAが出来て最初の一年は、左京(の事務所)から通ってたじゃないですか。その時はそんなに感じていなくて。ここに事務所が移った後、みんながふらーっと来ることに気づいた。事務所だったら、アポイントなしに人が来ることってあまりないんだけど、劇場には、たとえばいろいろな劇団の人がチラシ持って来たりするねん。劇場って人が来るとこなんだーって…。
それはでもね、確かに私も、(どこかの劇場の)近くに行ったら、知ってる人いるかなぁって、ふらっと覗くことあるなぁと思って。そういう感覚になるなっていうのは、事務所がこっちに引っ越して来てから思った。いつでも尋ねて来てくれたらいるよって言えるのは、だいぶ大きい気がする。
さっき、べってぃーが(私は)あちこち行ってるって言ったけど、KAIKAっていう1つの拠点があることで、意識の半分はここにあるんよ。(KAIKAができる)それまでは、ほんまにあちこち行ってた。ただあちこち行ってて。今は、帰ってくる場所があるみたいなのは、意識としてだいぶ違いがある。実際には、(数年前の)北九州へ毎月のように行ってた頃とか、引っ越してきた後の方が頻繁に出歩いてるんやけど。
20年が経って
渡邉:20年経って、次これしたいということはありますか?
植村:あんまり、もうないんやけどね(笑)。まあ、『珠光』のツアーの続きと、海外公演はやりたい。あと、KAIKAがあるので、各地のいろんな劇場と(作品を)回し合うんだみたいなことを、本当はできればいいねと思うんだけど。さぁどうするどうなるっていうところかなあ。それ以外…、この先やりたいことは、わかんないな(笑)。
(しばらく考えて)なるようにしかならんというか。たぶん必要に迫られて、やんなきゃいけないことが出て来るんだろうから、それをやっていくんだろうな。
渡邉:これまでもそういうやり方でやってきてるんですよね。
植村:PmPの時、東京の制作の先輩方がゲスト講師で、その人達にお話を聞いて勉強をするという会やったんやけど。その何人かが、まずこの先3年のビジョンを持ちなさいっていうことを言われた。「そんなこと言われてもなぁ…」と正直私は思っていて。衛星って、それこそ2ヶ月後の野外公演を今から段取る(※橋本くんのインタビュー参照)ような劇団だから。フットワークの軽さだけで生き抜いてて、先の予定は何も決まってない(ので急な仕事も受けられる)のが売りみたいなところがあったから。
今でもまあ、『プロトタイプ』の公演も、『サロメ/オイディプス』が終わってから考えたからね(笑)。公演やることは決まってたけど、詳しい内容は第一弾公演終わってから相談したから。結局、今でも半年後くらいしか考えてないじゃん。それじゃ本当はダメなんだけど。あんまり先のことを考えてないし、うちはたぶんそんな感じなのかもしれないね。逆に、「10年後も続けてるぞ」っていう、漠然としたすごい先のことは考えてるけど。
渡邉:20年続けてこられて、今、自分達より下の劇団がほとんどになってきていると思うので、そんな後輩の劇団に向けて、感じていること・何か言いたいことがあれば。あと、今の劇団員に向けて、言ってないけど言いたいことなどを、聞かせていただければと思うのですが。
植村:そうですね…。「続けようよ!」ってことかな。
渡邉:劇団員には?
植村:劇団員にはね、半分は「もっとがんばれ」だし、「でも愛してるよ」って感じかな(笑)。
若い人には、続けようよってことは言いたい。で、続けるための作戦考えようって。私達が大学を出てすぐの頃より、今はもうちょっとみんな、現実的なことを見てるんだろうけど。でも、やりたいって思わないとやれないと思うので。やりたいって思って、本当にやろう。本当にやりたいって思わないと、できないから。やりたいんだけどな…じゃできないので。やるなら、本当にやりたいと思って、本当にやるってことだと思う。それはうちのメンバーに対して(言いたいこと)も一緒かもしれない。
あとは、要領よくやりましょうって。私は、かなり適当な人なので。(笑)
渡邉:全然そんなイメージを、若い人達から持たれてないと思いますけどね。
植村:すごい適当なんよ、私は。適当ってね、大事だから。でも、(私のような)このやり方が、みなさんにとって魅力的なものかはわからないので…。
渡邉:いやいやいや。(植村さんは、)今の若い子達からは、制作スタッフとして、これでやってくっていう生き方をしている、とっても貴重な存在やなと思いますし。最後のこの話が聞けてよかったです。
植村:ハッハッハッハ…。
劇団衛星の活動継続と公演の実現に向けて、みなさんのサポートを、ありがたく受け取っております。応援ありがとうございます。