夕焼けの路地裏(短編小説)
劇団ロオル 短編戯曲 作・本山由乃
夕焼けの路地裏
この間、引越しの準備をしていたときに、本棚の奥にあった、見覚えのない本を見つけ、ほしかったわけでもなければ、とりわけ興味がある内容というわけでもなく、読まずにおかれたままになっていたのでした。
しかしその、本の中には、一人の男が、挟まっていたのです。
よれたハガキに滲んだインキで綴られた、今は亡き住所に住まう彼は、一体何者なのだろう。
一冊の本の中に取り残されてしまった彼を、私は探しに出かけたのでした。
何故、探そうと思い立ったのか、…解らないのです、私自身にも。それは理屈にはならない、この肺を埋める仄暗い、郷愁のような、いえ、もっと泥臭い、生ぬるい感覚、を覚えたのでした。
そこは、少し遠い町でしたので、電車を乗り継ぎ、バス、着くころにはもう、空が二色に分かれ、向こうの方はもう暗やんでいました。
私は、かつて、この番地があった、その近く、周辺に、彼の姿を探しました。
そして、ふと、私は見つけたのです。
記憶の渦に消えた男、くたびれた背広、その後姿、項垂れかけた首が、揺れる。先を行く彼の背中を追っているうちに、私は見覚えのある風景の中に居る事に気がついたのでした。
それは、私がいつかに覗き見た場所、あの黄昏の路地でした。
私は追いかけますが、彼はずんずんと先を行って、まったく追いつかない。
コンクリートの地面が赤々と、
電信柱、
烏、
子供の声、
夕飯支度、
その音、
匂い
遊具の孤高な軋み、
すり減った革靴の引きずるような足音、
男の歪んだ歩行法、
赤い雲がゆるむ。
身体にまとわりつくそれは、私の足取りを重く重く重くさせてゆき、その間に男はもっともっと先へ行ってしまう。
男の後ろ姿が遠ざかる。
「 」
その時私は、何かを叫んだのでした。それは夢中で。でも、何を叫んだのだろう、まったく思い出せないのです。
夕日の中に滲んで消えて行く後姿、ふと、彼が足を止めたような気がしたのです。私の声に気がついてくれたのか、解りませんが、彼は足を止め、少し振り返り、大きな手のひらを、こちらに差し出して、おいで、というように、ほほ笑んだのです。
私は嬉しくて、早く追いつかなくちゃ、と駆けだしました。
その時、
私は、気がついたのでした。
一番星が、見下ろしている事に。
もう、夕焼けは去り、彼の姿も一緒に溶けて消えてしまっていました。
辺りは夜の匂いがして、自販機が暗がりで煌々と明るく、帰宅途中の女子高生たちの甲高い笑い声が横をすり抜けて行く。
私は、向こう側へは行けないのだと知りました。
同時に、いままで胸を締め付けていたものが、すっと落ちて行ったのが解りました。
夜の訪れとともに。
(ハガキを破る)私は生きている
(ハガキを破る)まだ、ここにいる
忘却の彼岸、夕暮れの隙間はすぐそこにあって、暗やんだあの路地裏に、息を潜めているのです。
きっと、誰かの帰りを待っている、そう、思うのです。
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