【BAR:tender】(短編小説)
劇団ロオル 短編小説 作・本山由乃
【BAR:tender】…カーディナル…
夜が更けてゆく。
生ぬるく漂っていた外気は青紫に滲んで、
店の灯りだけがぼんやりと取り残された。
点々と灯った灯りは誘蛾灯で、
のろのろとした足取りが徐々に吸い込まれていく。
色褪せたジャズが小さく流れている。
この場所もまた、行き着く先であり、
背中にじわりと浮かぶ一筋の汗だけが、まだ融解しきっていない事を思い出させるのだった。
アルコールの飽和を求めた人々が、額に汗を浮かべながらカウンターに並ぶ。
皆同じ眼をして、自分と同じように汗をかくグラスに手を伸ばす。
女が口を開いた。
「あたしの話を聴いて頂戴、ほんの少しでいいからさ。」
じとり、と濡れた眼でカウンターを見回す。
カウンターに並ぶ人々も、ついその眼に引き寄せられて、湿った熱を受け取ってしまった。
それを合意と見做して、女は語り出した。
「酔っ払いの戯言よ、どうせ忘れてしまうんだから、
この今夜のいまだけは、あたしの声を聴いていて。」
ロンググラスに注がれた赤でほんの少し唇を湿らせる。
その仕草はどこか緊張して、これから紡がれる言葉達は懺悔かのように思われた。
「やめてよ、そんな大した話じゃないんだから。」
視線を感じてか、女はけらけらと笑った。
「カーディナル、」
ロンググラスを指して言う。
「似て非なる赤、あたしが1番嫌いなカクテルなの。」
血のような赤紫は女の血色を吸い取り奪っているかのように思えた。
白々とした頬に頬杖をして、女は続ける。
「彼女と会ったのは、もう少し秋に近い頃だったかしら。
昼間はねっとりと暑く、でも陽が陰ればしなやかな夜風が流れてゆく、そんな頃。
彼女はぼんやりとグラスを傾けていた。
あたしが隣に座ったのにも気付く様子なく、瞳の先はどこか虚。
青ざめた頬はお酒を飲んでいるとは思えなかった。
それでも、ぐっと一息でグラスを空にして、もう一杯頂戴、と小さな声で言った。
バーテンダーは頷いて、彼女のグラスに赤ワインを注いだ。
あたしも同じのを。
と言うと、彼女は初めてあたしに気がついて、
驚いたように眼を見開いて、
照れたように眼を伏せた。
店には彼女とあたし。無口のバーテンダーの他には人はなくて、錆びたレコードのようなクラシックがギシギシと間を埋めていた。
どちらともなく、
眼を合わせて、
硝子玉みたいな無機質な瞳がようやく人らしく熱を持ち始め、
彼女は小さく笑った。
「よくいらっしゃるの?」
「いえ、実は初めて、」
「そう、なんだか最後に一杯だけ、と思ったんだけれど、」
「あたしもよ、」
「結局、一杯でなんか終わらないのね、」
「あたしもよ、」
私たち、何だか似ているわね、と、
彼女が微笑む。
そうね、と答えながらも、
あたしは彼女の硝子玉の方が気になっていた。
虚なその向こうに何を見ていたのだろう。
もしかして、あたしと同じものじゃないだろうか。
赤ワインの渋みを舌で転がしながら、どうやって問おうか迷っていると、
彼女はじぃっとその硝子玉で私を捕らえていた。
「青ざめてるわ」
彼女が言う。
「何があったのか、聴いてもいい?」
あたしが口の中で混ぜていた言葉をさらりと出して、彼女はほんの少し身を乗り出した。
沈黙は肯定、と彼女は取った。
確かにあたしは誰かに話してしまいたかった。
その夜の出来事を。
「くゆらせた煙の向こうに居る男(ひと)へ
「ねえ、アナタ」と声をかける。
反応はもちろん無い。
それでもまた。
手を伸ばせば触るる距離も、
今は只、果てしない。
煙草を肺に思いきり、
「痛むから、」と苦笑の顔を
瞼に浮かべてもうひと吸い
爪先に滲む毒々しい臙脂
ルームライトに照りかえる。
くゆらせた煙の向こうに居る男(ひと)へ
「ねえ、アナタ」と声をかける。
反応はもちろん無い。
うつろな眼のまま虚空を見つめ、
アナタは何を思うのか。
あたしの事ではないのでしょうね。
足元のナイフはあまりにも現実で、
紫煙に視線を託しては、
あたしが想うはアナタばかりで。
なんて不公平なのかしら。
「誰のモノでもないんだから、お互い様よ。」
と笑えたら。
こんなに煙が渋いことも、
知らずに済まされたのでしょうに。
くゆらせた煙の向こうに居る男(ひと)へ
「ねえ、アナタ。
あたしをどうしたかったの。
アナタはあたしの何だったのかしら。
あたしはアナタの何だった?
指が真っ赤よ、趣味じゃないわ。
だからアナタとは最初から、
最期の一瞬(とき)まで合わなかったのよ。」
優しい嘘の顛末は、
いつだって虚しさしか残さない。
何が正解だったのかなんて、今やもう解らない。
どんな答えを出したって、結末はどうせ同じだろう。
もう元には戻らない、
元には戻れない。
もう、何も届かない、彼には。
そう実感した瞬間に、
足元が崩れるように震えが起きて、
あたしは、あたしは、
煙草の煙を残して部屋を出て、
背を追う夜風から逃れるように、
灯りゆく灯りの中を彷徨って、
ようやくここへ辿り着いた。
静かに震えが蘇る、
あの生温さが、体温が、その冷えていく様が、
思い返され、繰り返される。
嘘を重ね続けた罰と、
飲み込むのは容易いけれど、
それには何かが必要で。
赤ワインが目の前にある。
ぐい、と一息で飲み干して、
もう一杯頂戴、とグラスを差し出す。
彼女も、彼女の硝子玉も、あたしと同じものを写しているんだとしたら、
あたしたち、手に手を取っていくことも出来る?
互いに望むもののはず。
何かから逃れて、生ぬるい熱気に溶けてゆくこともできるのかしら?
何も考えず、何も見ず、ただ、あたしたち。
期待を込めて、硝子玉を覗き込む。
彼女は微笑んでいた。
そうして、
あたしも同じのを、と、バーテンダーに言った。
爪の間に燻った赤茶色、それを彼女にも探す。
そうしたら、彼女の手を取り夜風に攫われるがままに、
夜を揺蕩ってやろう。
そうしたら、そうすれば、あたしたち。
彼女の真白く細い指は、陶器のように、青白いままだ。
ハッとして、彼女を見る。
硝子玉が燃えている、
火に当てられてどろりと溶け出し、
焼き尽くす、あたしを。
白い指があたしの手を捕らえる、
研がれた爪が刺されば、
似て非なる赤が彼女の爪の間に滲んで行った。
白い蔦を弾いてグラスが倒れるのも構わずにその場から立ち去った。
彼女の燃えだした硝子が赤く赤く赤く、
眼を背けても焼き付いて、
外の灯りたちが全て彼女の硝子玉のように思えた。
手の甲に5本の線、
ぐらぐらと燃えたぎる血液、
鮮明な赤色、
隠すように人混みを駆け抜け続けた。
あの店へ舞い戻ったのは、
昼間も乾いた冬色で、夜になれば身の底まで凍るような夜風が突き刺さる頃だった。
彼女は、居なかった。
空いたグラスには赤の名残。
あたしはその席に座って、
赤ワインを頼んだ。
バーテンダーは、あの夜の事なんか忘れたみたいに、小さく頷いてグラスに赤ワインを注ぐ。
「彼女は、」
と、あたしはバーテンダーに声をかけた。
「彼女、とは」
バーテンダーはワインを注ぎ終えると、また無言に戻り、グラスを磨き始めた。
あれから3月は経つかしら、
それなら、あたしの事も覚えてはいないのかしら、
彼女とのあのやり取りも、
彼女の事も、
あの夜の全てが、
まるでまったく無かったみたいに。
あたしは注がれた赤ワインに口をつけた。
渋みを舌に載せたまま、
そうだ、あの夜は全て酩酊の幻だったのではないか。
と、思った。
全てはあたしの観た夢で、
あたしは自分が思っている以上に酔っていて、
夢と幻と真実と嘘もまぜこぜになっていて、
どうしようもない想いだけを残して現実に帰って来てしまったのだ。
彼女と会ったのだって、
本当かどうかも、もうわからない。
あの人が、あの人が、居なくなったのだって、あたしの幻だったのだ。
彼女の硝子が赤く溶けていったのだって、あたしの罪悪感の作り出した幻想だったのじゃないかしら。
そうでなければ、
今頃あたしはここには居ない。
とっくに、どうにかなってしまっているはず。
爪の間の赤茶色だっていつの間にか消えていたし、
今のあたしの指先は血の気が引いた青白さで、
赤ワインの色が移ってやっと、人間みたいに血が通う。
あの5本の線だって、今や跡形もありはしない。
なんだ、なんだ、幻か!
安堵に思わず頬が緩む。
抱え続けてきたものをようやく下ろす事ができたみたい。
背中の強張りが一気に溶けて、
あたしは赤ワインを飲み干した。
もう一杯頂戴、
あたしも同じのを、
隣からの声に、
ハッと横を向けば、
あの日のあたしがそこにいた。
嘘だって?
そう思うならそうかもね。
まあ、いいじゃない、
酔っ払いの戯言よ。
聴き流してくれてもいい。
ただあたしが話したかっただけなのよ。
どうしてかって?
どうしてかしら、彼女に聞いてみて。
彼女の方がわかっているわ、あたしより。
あたしと彼女は似たもの同士なの、
彼女を待たせているから、あたしはもう行くわね。
それじゃあ、また、何処かで。」
女が去った後、
遠のいていた街の賑わいが戻ってくるまで時間がかかった。
じっとりと背中を伝う汗はシャツを満遍なくしけらせて、
今をあの冬の日から引き戻した。
何を託されたのか、
問うように視線を揺蕩わせるカウンターに、
店員は制するように、
お代わりはいかがですか、
と、問いかけた。
戸惑いの沈黙に、
店員はカーディナルを作り始めた。
赤ワインとカシス、その似て非なる赤。
2種類が混ざり合って、深みの増した血の気。
毒々しさに反して、聖職者の衣装に由来するカクテル。
その緋色は、
信仰のためなら命すら献げる覚悟の色。
女が嫌ったカクテルは、
女が棄てたものなのだろうか。
甘みと渋みが交わり合い、
自分自身というものを見透かされているような気持ちになる。
あの秋の夜。
女が終わらせた嘘も、
あの冬の夜。
女が出会った彼女自身も、
まじりあった先に、この熱風があり、
熱に浮かされながら溶けゆくことを望んだカウンター。
彼女はだからこそ、
置いて行ったのかもしれない。
彼女の物語を。
「どうせ朝には消えて行きます。それがこの場所、この街。
それが酒場というものですから。」
了
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