ロールプレイと教育

ロールプレイということば

ロールプレイは役割演技ともいって、ある状況やある人物になりきって演じるというものであろう。

会社の世界ではロープレと略されて行われることもありますよね。

それから、看護の世界とか学校教育のなかでもよく使われるのではないでしょうか。

そして、ロールプレイと言えば演劇とも関わってくるところですね。

まさしく、登場人物の状況を想像し、その役に入り込んで気持ちを考え、それを演じ表現していく、ということが醍醐味である演劇はロールプレイそのものなのではないか。

ここで考えたいことは教育の世界(特に社会科教育)でのロールプレイという言葉について。

演劇をしている人々からしたらロールプレイというものは声の発し方や動作なども含めて「役になる」ということを考えるであろう。

演出家の鴻上さんも著書の中で

 「ロール・プレイング」は、つまりは「役になって演じる」ということです。教科書や小説のワンシーンを、生徒に登場人物の役を振って実際にやってみることで、いろんな発見が生まれることが多いです。

鴻上尚史(2021)『演劇入門 生きることは演じること』集英社、p.233

と述べている。

しかし、社会科教育をのぞいてみるとロールプレイは「ある人の立場になって考える」ということまでの活動が多いのではないかと感じている。(社会科界のロールプレイとは通例どう定義されているのか、どう使われているのか、ということはさらに考えなければならないが)

つまり、ロールプレイの2段階として
①その役の状況や気持ちを考える
②実際に表現して演じてみる

というものがあると思っているのだが、主に①が重視されており、②は軽視されているのではないだろうか。

②がもっと重視されればさらに質の高い活動になるのに…と思います。

例えば、徳川家康の気持ちになって考えてみよう、米農家の人の気持ちはどのようなものだったのだろうか、アマゾン開発について政府・先住民などの立場になって話し合ってみようなどといったことが考えられる。

いわゆるこれらの学びは社会科では「共感理解型」ともいわれる学習ということができるであろう。

誰かの立場になって気持ちを考え、共感し追体験をしてみよう、というような学び方である。

よくこの共感理解型(=シンパシーを重視)(※シンパシーとエンパシーについてはまたどこかで書けたらいいなと思っています)の学習は批判の的に上がることが多いのだが、そもそもこの気持ちを考えるだけのロールプレイでは共感できていないのではないか、とも思うのです。

つまり、共感の質・レベルが低いのではないか、役になり切れていないのではないか、ということです。

最終的に「演じる」という活動があるからこそ、しっかりと発表するためにその人のことを丁寧に考えたり調べたりしなければならない、という気持ちになるのではないか。

そのことが、その人物への理解が深まり、共感できている、ということになるのではないだろうか。

また、ロールプレイという活動で「演じる」ということまで行えば、そのなかで必然的に子ども同士でのコミュニケーションが行われることであろう。お互いが対話を行い、それぞれの意見を持ち寄り、考えが深まればさらに良い活動になりそうだ。

そして、演じるということを通じて表現力を高める教育が行えれば良いなとも思います。

活動あって学びなし、という言葉があるが、それは活動の質が低いことが原因として考えられるのではないか。

活動の質を高め、学びある教育活動が増えると良いなと思います。

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