チェコについて🇨🇿①
「国家とは嘘である、国境はない」と20世紀後半の平和主義者は口々に言っていたと思いますが、現実問題としてそれは嘘ではなく仄めかされる形であるとはいえ、拘束力を持つ実体です。ですから嘘や幻想というより何かもっといい言葉はないだろうか、実体はあるが煙の中のような、ユーモラスでありグロテスクなもので…、と探す際におそらくチェコ出身の小説家ミラン・クンデラなら『冗談』と答えるでしょう。
クンデラは1975年にフランスに亡命して執筆を続けます。世界的ベストセラーの『耐えられない存在の軽さ』もプラハの春を舞台にした作品ですし、彼は同じく亡命音楽家として有名だった指揮者のラファル・クーベリックと並ぶ存在でした。
西側の文壇、それは大江健三郎も含みますが、クンデラを通して社会主義一党独裁制の滑稽さを知るわけで、チェコの薄暗い機械的な雰囲気を受け取ることになります。昭和の知識人(もはや死語)が語るチェコのイメージは、令和の若者世代が思うチェコのイメージとは全く違うはずで、それだけで論文になりそうですが、この話の最もチェコらしい結末は、散々祖国の体制を批判していたクンデラ自身がスパイ密告者だったという疑惑が出たことにあります。
元ナチだったことを表明したドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスと異なり、クンデラは最後までそれを認知さえしようとせず沈黙したことによって、このことが決定したわけではないのですが、仮に事実ならクンデラの小説や発言は全て解釈が変わってきてしまうように思います。この疑惑で確実視されていたノーベル文学賞受賞は無くなったといえるでしょう。真剣に読んで考えていたのは何だったのか、と乾いた笑いがこぼれそうです。彼の最後の作品は『無意味の祝祭』で、一切は無意味ですよというしょうもない散文でしたが、これまで自分の書いてきたこと、言ってきたことは全て冗談でした、という表明だとするなら極めて感慨深いものです。
嘘や欺くといった強い言葉では表せない、しかし完全に空虚でもない微妙なもの。チェコを眺める際のどこか冗談めいた滑稽さに、真摯に向き合うとこちらが歪むあのグロテスクさが文化や歴史の至る所に見られます。冗談のようなチェコ。チェコのような冗談。
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