アートは、まるでソーセージ? 形あるものではなく、活動の集合体なんだ!
セバスチャン高木が、藝大アートプラザの運営にたずさわってから早3年。年12回の展示やアーティストとのお喋りを通じて、あることに気がつきました。
それは、自分を含め世の中の多くが「アート」を形あるものとして捉えていること。
資本主義社会に巻き込まれたり、サイズや技法の話になったり……アートの評価を見ているうちに、そもそも形あるものとして捉えること自体が間違っているのではないか?と感じるようになったのです。
アートは、まるでソーセージ?
アーティストが形にしたもの=「作品」は、あくまでアート活動の一部であり、実際には思いがあり、そこから連なるプロセスがある。なのにできあがった作品だけを見て、私たちは「アート」を感じている。
「おかしな例えだけど、アートはソーセージのようなもの」とセバスチャンは語ります。
ソーセージは活動の集合体で、切断面は作品。切断面のみ見ている私たちはそれ(作品)がアートだと思うけれども、作家にとって、アイデアを思いつき何かを作るという活動の積み重ね全てがアートなのだ、と。
現代のギャラリーはアートの切断面を展示販売しているけれども、藝大アートプラザは、ソーセージ……じゃなくてアート活動の集合体、を見せるような場所にしたいとセバスチャンは野望を語ります。
作家だけでなく鑑賞者の活動も「アート」
アート=形であると捉えると同時に、私たちは自ずとアート=作家だけが生み出すものと捉えているような気がします。
そこにもやはり、先入観があるのかも。そこで鑑賞者の行動のプロセスも、アートになりうるのではないかとセバスチャンは考えました。どこへ行こうか考えてギャラリーに足を運んで、鑑賞して、考えて、購入して、家に飾って……これら全てのプロセスもアート活動ではないだろうか?
鑑賞者の活動もアートだと考えるようになったきっかけは、岡倉天心の『茶の本』。この本に東アジア特有の「不完全の美」として「鑑賞者の目を通して初めて作品が完成する」と説かれています。
現代のアートを取り巻く環境を俯瞰すると、鑑賞者は、完全に受け身の姿勢です。でも受け身の姿勢を脱して、鑑賞者の活動もアートであると強く思いこんでも良いのではないか、とセバスチャンは訴えます。
アートの捉え方を変える「ドロT」
そんな凝り固まったアートの捉え方を変えるための、藝大アートプラザの取り組みのひとつが「ドロT」です。
ドローイングというアートのプロセスは、若いクリエイターにとって毎日のように行う作業である一方、どこにも発表されず溜まっていく、ともするとゴミ箱に捨てられてしまうこともあるような作業です。でもそれをTシャツに刻めば、ドローイングというアートのプロセスの一瞬が、人の手に渡っていきます。新しいアートの誕生です。
アートの世界には「プロセスを見せてはいけない」という風潮もありますが、完成されたものだけがアートじゃなくてもいい、ということを藝大アートプラザは伝えたい。どの段階であっても、アートのプロセスなのだから。ちょっとした考え方や気持ちの切り替えで、アートを完成したもの、形として捉えるもの、という先入観を変えていく方が重大なミッションだ! なんて感じている今日この頃です。
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