ハケンの人:古希バージョン。
最近のことだ。
シニア専門の派遣会社から70才の男性が来られたことがあった。その方は若かりし頃は世界中を飛び回るエンジニアで、リタイア後はコンサル業をしていたが体力、気力共に元気なこともあり、やっぱり一線に復帰したいということで派遣会社に登録、うちの会社に派遣されてきた。
見た目は確かに若い。
滑舌も実になめらかで、とにかく朗らかで、今の古希はこんな感じなのだなと各部署の挨拶廻りの時などは、自分も古希になったときにこのような感じでいたいと思うほどだった。
初日に社食に行く際、その部署の人が二人だけで食べるのもなんなので(たぶん若手の彼は会話に困ったのだろう)一緒に行きませんか?と声をかけてくれたので、興味もあったことから一緒に食事をすることになった。
今の社内食堂というのはかなりIT化が進んでいて、専用のカードを端末機にかざして支払う。
まずは、そこの説明を受けながらトレイに食事を載せて同じテーブルに座った。
その方は口に食べ物を一杯入れると、うれしそうに「僕の若かった頃は~」と、昔話シリーズをスタートさせた。
この時点で私は、自分がこのような年令になったら(今の感じでいくと定年が70才に引き上げられる日も遠くはない気がする)、あの頃はね…とスタートさせることはやめた方がよいのだと悟った。
彼は日本が急成長してきた団塊世代だったから、時代の先頭を切って私生活をすべて犠牲にしながらも仕事に奮闘していた話は、とても興味深く面白かった。
ただ話しながら、途中何度も入れ歯がズレるようで、口に入れた食べ物があちこち飛んでくる。
隣に座った彼の部署の若手は露骨にイヤな顔をしていた。私は二度ほど条件反射でよけることができたけれど、自宅なら「ちょっとお父さん!食べてるときにしゃべらないで!」と注意されているだろう。
食べている量とこぼしている量が同じくらいになったとき、彼はどうやら自分以外の人たちはとっくに食事が終わっているということに気付いたようだった。 どうぞごゆっくり食事してください、私たちは待っていますので。と言うと、あせって入れ歯がさらにズレ、口の中でカチャカチャいっているのが聞こえた。
その時に聞いた話は本当に面白かったのだが、この入れ歯の音がそれらの記憶を一瞬にしてかき消してしまった。部分入れ歯か、総入れ歯なのかどちらかはわからないけど、カスタネットの音色に近いなと思った。
派遣社員には就業初日にメールアドレスが用意される。注意事項や仕事の連絡は全てメールで送られるが、どうやら彼はメールが不得意らしく、マウスが机からどんどんはみ出てしまういわゆる「シニアのPC若葉マークあるある」に陥っていたようだった。マウスは手首は固定させて指を動かすが、慣れていないと腕ごと動かしてしまう。
しかし、とにかく古希で新しい職場にチャレンジするその精神が素晴らしい!と誰しもが感銘を受けたこともあって、その方はメールは使わないで済むように仕事に関係する情報は、隣の席の人が印刷して渡してあげることになったようだった。
そして、彼の本業であるが、なんと年季の入った鉛筆と定規をもってきていて、すべて鉛筆で書いていくつもりだったらしい。手書きの仕事は皆無だったから、それも誰かが印刷したものに彼が赤ペン先生のごとくチェックする仕事になったとのことだった。
建屋には段差がいくつもあったが、誰かが常に声をかけるようになった。一見、高齢者を労わっているようだが、派遣の方が社内でこけてケガでもして、労災にでもなったら困るというのが本音だ。
耳が少し遠かったので、会議になると部屋からその方の声だけが聞こえてきた。
誰しも年を取るわけで、自分の両親の老いはどちらかと言うと受け入れがたいけれど、他人になると客観的に見れるのでなるほどこんな風になっていくのか、と分かることが多かった。
そして冷静に見ると、彼が来たことでその部署の人は明らかに仕事が増えていた。誰かがいつもお世話係になる必要があったからだ。
半年もいただろうか。
結局、会社は彼の知識があまりに古かったこと(素晴らしい知識と経験をお持ちだったが、現在とギャップがありすぎた)、デジタル機器があまりにも使えないことが理由となり、契約終了となった。もし正社員が古希になるまでいるとすれば、情報のギャップも少なかっただろうし、会社のデジタル機器はほぼ一年ごとに更新されるから、全く使えないということもなかったと思う。
いかんせん、すべてにおいてギャップがありすぎたのだ。
最終日、彼のために送別会が開催され、清々しい笑顔で去っていったと聞いた。
彼から学んだこと:現役でいたかったら、脳も身体もバージョンアップを怠ってはいけない。
カスタネットの音を自分の口で鳴らすのは避けたいから。
温かいお気持ち、ありがとうございます。 そんな優しい貴方の1日はきっと素敵なものになるでしょう。