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研究者のための文法書、学習者のための文法書 -Binh Ngo (2020)のレビューを兼ねて-
ベトナム語の学習は5年目を過ぎて6年目に入った。今は2種類のレッスン(北部音:マンツーマン、南部音:クラスレッスン)を利用しているが基本は独学ベースでの勉強が続いている。5年以上も続けると覚えた単語数も構文の種類もかなり増えるのだが、独学で得た知識はどうしても断片的なので、まとまった体系として把握できていないのが悩みの種だった。マンツーマンレッスンを行う時も「(天気や最近のニュース、家族の近況など)気になる話題」を中心にして進めていくため、先週のレッスンでは「バスに乗って行く」「タクシーに乗って行く」などの移動表現を勉強したとしても、次回のレッスンでは「歳を取るほど記憶力が悪くなる」のような累加表現に焦点が当たる。これでは文法が全然まとまらないので、例えば「移動表現にだけ焦点を当てるレッスン」という要望を出すことも不可能ではないけれど、これは教える側にも技術が求められるしうまくいかないと単語の羅列をただ暗記するだけになってしまう。
このような状態が何年も続いており、既に脳内では有機的につながっていないバラバラな知識が大混乱を起こしつつあったのだが、「学習者視点で文法を体系的に理解する」というニーズに応えられる文法書をなかなか見つけることができなかった。ベトナム語の文法書としては専門家が書いた「参照文法(reference grammar)」がいくつかあり、Nguyễn Đình-Hoàの"Vietnamese" (John Benjamins, 1997年)のように国際的にも有名な本も複数ある。しかし、参照文法は通言語的な枠組みで各言語の文法を体系的に記述することが目的であり、学習者として日々湧いてくる疑問にはあまり刺さらなかった。
最近はいよいよレッスンのパフォーマンスも下がりつつあって「もうそろそろ限界かな...」と思案していた中で、ようやく最高の処方箋とも言える本を見つけることができた。ハーバード大学ベトナム語プログラムのDirectorであるBinh Ngoによる学習用文法書 "Vietnamese: An Essential Grammar" (Routledge, 2020年)のことだ。
目次から見る、記述用と学習用の文法書の違い
言語記述のための文法書と言語学習のための文法書の違いは、まず目次に現れる。試しにNguyễn Đình-Hoà (1997)とBinh Ngo (2020)の章立てを比べてみよう。
Nguyễn Đình-Hoà (1997)の章立て(日本語訳はGENGOLANGUAGE)
第1章 導入
第2章 音体系
第3章 語彙
第4章 語彙(前章の続き)
第5章 品詞
第6章 品詞(前章の続き)
第7章 品詞(前章の続き)
第8章 名詞句
第9章 動詞句
第10章 文
第11章 文(前章の続き)
Binh Ngo (2020) の章立て(日本語訳はGENGOLANGUAGE)
第1章 名詞、名詞句および名詞的要素
第2章 動詞、動詞句および動詞的要素
第3章 形容詞、形容詞句および形容詞的要素
第4章 語形成
第5章 文
第6章 問題となる語、句、構文
(付録1)用語説明
(付録2)索引
第7章 発音
言語学の研究者でなんらかの参照文法を実際に読んだことがある人ならNguyễn Đình-Hoà (1997)が「非常にオーソドックスな章立て」で組み立てられていることに気づくだろう。音声から始まり語彙の全体的特徴を押さえた上でその言語の品詞体系を考える。その後は各種の句や文についてカタログするという、まさに「典型的な参照文法」である。
一方、Binh Ngo (2020)は「ベトナム語学習において彼が何を大事と考えているのか」が強烈に反映された章立てになっている。端的に言うと「名詞と動詞と形容詞」を理解することがとにかく重要であり、「ベトナム語はどのような品詞体系を取るのか」はさほど重視していない。ここまではっきりした割り切り方は記述研究だったら失格かもしれないが、学習者にとっては「自分たちの問題の所在」をしっかり見通すことができてとても便利だ。
さらに、Binh Ngo (2020)の目次で特筆すべき点は発音が最後の章にあることだ。最後の章というだけではなく付録扱いである用語説明と索引の後という「極めて例外的な位置」にある。きっと索引まで読み進めた読者の中にはこの章の存在を忘れて本を閉じてしまう人がかなり出てくるだろう。このような特殊な配置は「この本の想定読者はベトナム語の基本的な知識を備えていて、発音練習は既にクリアした人だろう」という筆者の強烈な意図が込められている。ここまで対象者をはっきり限定した文法書は用途を問わずかなり珍しいが、中級以上の学習者にとっては冒頭から文法の話題に没頭できるのでむしろありがたい。「こんな工夫の仕方もあるのだな」と思わず感心してしまった。
用途によって求められる「記述の細かさ」は異なる。
記述用と学習用の文法書の違いは「記述の細かさのレベル」にも顕著に現れていて、両者の目次の立て方にも十分に反映されている。以下では命令文に関する章立てを比較してみよう。
Nguyễn Đình-Hoà (1997)の命令文(日本語訳はGENGOLANGUAGE)
第11章 文(前章の続き)
(前略)
11.1.4. 命令文
11.1.5. 感嘆文
(以下略)
Binh Ngo (2020) の命令文(日本語訳はGENGOLANGUAGE)
第2章 動詞、動詞句および動詞的要素
(前略)
2.11. 命令文
2.11.1 Hãy
2.11.2. Cứ
2.11.3. Đi
2.11.4. Nhế
2.11.5. Mời
2.11.6. Đã
2.11.7. Đừng
2.11.8. Khôngとkhông được
2.11.9. Chớ
Nguyễn Đình-Hoà (1997)は文についての章、Binh Ngo (2020)は動詞についての章で命令文を扱っているが、命令文には必ず動詞が含まれるのでこの違いが大きな差異を生むことはない。ただ、小節と例文の数を比べると記述用と学習用の文法書が全く異なる性格を持つことが分かる。記述のための文法書であるNguyễn Đình-Hoà (1997)では命令文は小節に分かれておらず内容もわずか1ページ半だけである(例文数は15文)。一方、学習用のBinh Ngo (2020)は命令文で使用する9つの命令マーカーを全て小節に分けており内容も5ページにまたがっている(例文数は圧巻の46文!)。記述用文法では命令文の基本的構造が分かれば事足りるのだが、学習用文法は個々の命令マーカーの使い方を正確に理解させる必要がある。そのような目標の違いが小節の立て方と例文数にはっきりと反映されている。
読者のニーズと文法書のあり方
ここまで見てきたように、記述用文法と学習用文法は用途も内容も全く違う。もちろん「どちらが良い/悪い」という優劣の問題ではないことは強調する必要があるのだが、「学習者が文法をより体系的に理解したい」と思う時に記述用の文法書を手に取っても、疑問になかなか答えてもらえず不完全燃焼になる可能性があることは研究者も教育者も知っておいた方がいいだろう。また、日本では日本語で書かれた学習用の文法書は英語や中国語など一部の言語に限られており、海外で出版された優れた文法書の翻訳も少ない。この分野はまだまだ開拓の余地があると思うし、言語研究者の活躍が学習者への恩恵に直結する仕事でもあるので価値も十分にあると思う。
ここまで記述文法であるNguyễn Đình-Hoà (1997)との比較を通してBinh Ngo (2020)の特徴を紹介してきた。この本には語り尽くせない魅力がまだまだあるので、次回はこの本単体でのレビューとおすすめの使い方を見ていこう。