見出し画像

なぜ俺はメイクをするのか

「30代男性がメイクにハマって気付いた事」の後編になります。

前編はこちら(必ず先に前編を読んでください



なぜ俺はメイクをするのか

冒頭の疑問に立ち返ろう。

なぜ俺はメイクをしているのか。

女性のように「メイクをしていないと垢抜けてない、ノーメイクで社会に出てはいけない」ようなストレスは受けていないのにも関わらず。

自分は、いわゆる「メンズメイク」と呼ばれるような簡易的な、あるいは「メイクしているように見えないけどキレイにする」程度の事ではなく、わりかし女性がやろうとしている事を多く取り入れた普通の「メイク」をしているつもりだ。

目指す所としては、

  • 自分らしくキレイになる事を目標にメイクしている

    • それで自分に自信を持ったり、良い気分になりたい

    • メイクをする前に持っていた劣等感を払拭したい

    • できれば中性的な感じになりたい

  • 既に結婚もしているし、モテたいわけではない

  • シス男性なので、女性として扱われたい、というつもりはない

    • 「女性のように上手にメイクしている」という意味で女性っぽく見られる、事は嬉しく思う

    • ただし、それらの属性がすべて女性のものとされる状況は不満なので、この状態で普通に男性であると理解されたい

  • メイクをしている事を隠したいとは全く思っていない

やっぱり、メイクをして、自分がキレイだなって思えることは、純粋に楽しいし!最初は「キレイな肌に戻りたい」という気持ちだけだったが、アイメイクも上手くできると印象がかなりアップするし、ラメを乗せたりすると超テンション上がる。

しかし、このような欲求を表に出して言う男性は少ない。

もちろん、居ないはずはない、と思っている。以下のアンケートを取ってみた所、意外にも「中性的になりたい」がトップになり、「女性的になりたい」も合わせると半数を超える結果となった。

じゃあなぜ彼らはメイクをしないのか?(一部にしている人がいる可能性もあるが、男性の半数が中性的・女性的になろうとメイクしている現実はまだ存在しないだろう)

身だしなみが求められないのは男性にとって「良い事」なのか

冒頭で私が洗顔料一つ買うのをためらっていた背景にも通じるが、「社会からそうしろというストレスを受けていない」ことは、「社会から普通はそんなことをしない者と扱われる」ことでもある

これは良いことだろうか?「男はストレスが無くて良い」という話なのか?だとしたら、私がそれによって自らの肌を大切にする契機を逃し続け、後悔している、この苦しみは何だというのか。

逆に考えてみよう。男性はリーダーシップを発揮する者として社会から扱われる、という傾向がある。この事を、女性が「リーダーシップを求められなくて良い」と片付けられるだろうか?(そう思う人が多数でもおかしくないが)いや、「リーダーとして期待されない事は、女性が活躍する機会を奪っている」と考え、主張する人もいるし、それも正当なものだ。

間違えないでほしいのは、
あなたにとって、何かの期待が「有ることが苦しい」のと同時に、
私にとって、同じものが「無いことが苦しい」のは、
ともに成り立つ
、ということだ。

そこで、「お前は期待されてて羨ましい・有利だ」とか、「お前は期待によるストレスが無くて羨ましい・ズルい」といった対立に持ち込みたくはない。そう思ってしまう気持ちはわかるが、その言葉は相手に響かない。なぜなら自分にとってストレスの元となるモノが、実体として、

  • ストレスでもあり、モチベーションでもある

  • 抑圧でもあり、後押しでもある

  • リスクもあり、リターンもある

  • やらされている事でもあり、やりたい事でもある

という性質を兼ね備えているからだ。

そして、メリットとデメリットのどちらが大きいかは、「人による」。私がメイクすることにストレスを大きく感じないからといって、他の人が受けているストレスを私は否定しない。同様に、私が欲しかった後押しが、あなたにとって抑圧でしかなかったとしても、それを否定しないで欲しい。

冒頭に紹介した「だから私はメイクする」の著者、ひらりささんの別の著書「それでも女をやっていく」から、以下の文書を引用したい。

”したい”おしゃれと、”させられている”おしゃれの区別は本当に難しい。

まさにそうなんだ。これはリスクとリターンが表裏一体であることと直接対応する。リターンを得ている同属性の人間から影響されるからこそ、リスクに向かう契機にもなり、それが人によって苦しみにもなる。

だからまずは、「お互いの苦しみの存在を否定しない事」からスタートしたい。難しい事を言っているのはわかっている。私が「◯◯が無くて苦しい」と言うと、「◯◯が有って苦しい」人からしたら、それを否定しているように聞こえるかもしれない。しかし、私はそれを否定せずに、「両方があるもの」として、私の立場からの話をする。

前半は主に「メイクをする女性はこんなに大変な競争をしていたのか!」という立場からの意見を述べてきたが、ここからは、「メイクをしない男性はこのように競争から疎外されてきたんです」という立場からの話をしていく。


メイクする男性ロールモデルの不在

普段メイクをする女性は一体どうやって情報収集および取捨選択をしているのだろうか?そもそも、女性がメイクを始める以前の学生時代などに、自分でお金もないし情報も無い所からどうやってメイクができるようになるのか?と気になって妻に聞いてみたところ、「身内(友人、姉妹、母親など)から教えてもらう」というあっけない答えが返ってきた。

ジェンダーギャップの要因の根源的なところには、こうした情報ネットワークの非対称性、というのが大きくありそうだ、と思っている。そもそも人間が既存の文化を学習する際のバイアスとして、「自分と似た属性(性別・人種・言語など)を持つ人をロールモデルとして選ぶ」事が研究から示されているのだ。

男の子は男性に、女の子は女性に関心を示して行動をともにし、その人から学ぼうとして当然だろう。そうすれば、育児、狩猟、料理、機織りなど、自分の将来の役割に必要なスキルを身につけられるからだ。

文化がヒトを進化させた - ジョセフ・ヘンリック

これは生存戦略としては合理的だし直感的だ。こうした性質を誰もが認めているからこそ、女性の社会進出を促進するという意味でも、「ロールモデル」がいるかどうか、という点が強調される。

ちょっと前にBRUTUSのコーヒー特集で選ばれたのが男性ばっかりだ!という批判が沸き起こったが、これも「女性のロールモデルが居る事を広める」点では意味がある。

「もうコーヒー屋やってる女性もいる」とか「実力で選ばれるんだから腕を磨け」というのは一面で正しいが、そうすると「私もこんな人になってみたい」という最初のモチベーションを生み出したり、「コーヒーの淹れ方を教えてくれる女性を見つける」といった機会を後押しできず、実際にコーヒー屋をやろうと決意する確率が男性に偏る状態は再生産されるだろう。

メイクにおいても同じ構造がある。

どう見ても、世の中には「メイクをして美しくなろうとする男性のロールモデル」は少ない。もちろん、(私のように)メイクしている男性はいるし、調べたらできるんだから自分で努力すれば良い。ただ、ロールモデルがいなければ「私もメイクやスキンケアをしたらこうなれるのかも」という最初のモチベーションが生み出されず、ケアを始めるのが遅れてキャリア的にも(肌の状態的にも)ハンデキャップを負った状態からスタートしなければならない。スタートしてからも、「このコスメ良かったよ」と情報を交換できる友達は男性の中では当然いない。結果として、メイクを頑張ろう!と決意する確率が女性に偏る状態が再生産されている。

私自身は、主に自分で調べながら会得していったが、妻や、数少ない女性の友人の知恵を借りたり、コスメを頂いた事もあったので、感謝している。

こうしたジェンダーギャップが男女どちらかの責任論に終始するのは不毛である。もちろん、ハラスメントを行うような個別の人間はその責任を負うべきだ。しかし、大多数の女性は、男性のメイクを揶揄したりメイクに関する情報を遮断しようとはしていないし、大多数の男性も、女性の仕事を邪魔したりコーヒーの情報を遮断しようとしていない。にもかかわらず、人間に備わった模倣能力が、ジェンダーギャップを保存するように作用する。

なので、広告であれ有名人であれ、「メイクしてますよ」という男性が増えてくれると大変嬉しいし、私のような一般人からも微力ながらその流れを作れたらと思っている。

以前、KATE × 米山舞さんのコラボで作られたアニメーションは、男性(っぽい)モデルのキャラクターもしっかりメイクしてていいなぁ~と思った。

しかし次なる問題として、いわゆる「メンズメイク」と(女性の)「メイク」の内容の格差というものがある。


■男のメイクはバレたら負け?

以下、どこのサイトかは書かないが、出会ってショックを受けたメンズメイクに関する広告文。

メンズメイクの基本は『ナチュラル』です。
「この人メイク濃いな」では印象アップにはなりません。メイクしていることがわからないよう、”さりげなく”がポイントです。

……なんで?

基本は『ナチュラル』から始めるのはいいとしても、なんで「この人メイク濃いな」と思われたら印象アップしないの?「濃くて失敗している」とかならそうかもしれんけど、濃くてカッコよくできてたら良くない?「メイクしていることがわからないよう」だって?大きなお世話だ。

残念ながら、このような「男はメイクしてるのをバレてはいけない」ステレオタイプはまさに美容業界が再生産を続けており、メンズコスメを探したりメンズメイクのインフルエンサーの動画を見たりする中で何度も何度も出くわした。

なんでそうなるかというと、当の男性が「メイクバレちゃいけない」を内面化しているため、その男性にもコスメが売れるように、と考えると「これはバレませんよ」という売り方になるのだろう。

ダメだ。そんなんじゃダメだ。

逆に男も「メイクしていない事」がバレたら「今更まだやってないの?」くらいの空気感出していこう(※極端な意見です)。

本稿で言いたいこと大体コレ↓

ステレオタイプしばくぞ。おっさんがメイクしてて何が悪いんじゃ。

もちろん、メンズも対象としたコスメはかなり出てきているし、広告などに男性モデルが出てくることも珍しくはない状況になっている。私も使っているNARSは創業当時からジェンダーレスを謳っているらしい。


■メンズメイクに関する意識調査

ググったら以下の資料を見つけたので引用してみる。

女性のメイク率は平日で45.3%・休日で40.2%となっており、一方男性は平日で3.6%・休日で3.5%の割合でメイクをしていることがわかりました。

まずメイクしている割合。女性は45%、男性3.6%。意外と女性でも半数割れしている!「普段習慣的に」というとそうなるのかも。逆に、男性はほんとに3%もいるか……?という体感だ。

しかしその内実はやはり、男性は圧倒的に「BBクリーム」が多く、その他のポイントメイクは(メイクをやっている人の中でも)女性の1/2から1/3に留まる。つまり、アイライン引いてる男性は全体の約1%しかいない。

「メンズメイクに関する調査」 | ネオマーケティング

次に興味深い調査結果は以下。

■男性がメイクをすることについてどう思うか(n=7,590)

「メンズメイクに関する調査」 | ネオマーケティング

年齢が若くなるにつれて抵抗感を抱かない割合が上昇していることがわかります。
また、全体的に男性よりも女性の方が「男性がメイクをすること」に抵抗感を持っていないことがわかります。同性からの方が、やや理解を得にくい傾向があると言えそうです。

実は男性自身がお互いに「メイクなんかしない」と縛っている、けど女性から見れば「すればいいんじゃない?」という方が多いよ!という結果。しかし一方で、無視できない割合(女性の2,3割、男性の4,5割)がメンズメイクに「抵抗がある」としている。理由までは書かれていないが、やはり一部の人からの「何コイツ」みたいな反応を覚悟しながらやらなければならない、という状況にある。


女性向け空間が持つ障壁

なぜ、このように男性が「メイク」をすることが一部の人間から忌避されるのか(気づかれないレベルの「メンズメイク」はまだ良いとしても)。

これには複数の理由が考えられるが、一つには「女性向け空間からの男性の排除」という規範が挙げられる。

ジェンダーレストイレ問題においても明らかだが、「女性しか入ってはならないとされる空間」に、「男性(と一方的に見なされる人間)が入れる」という事は、それを犯罪に利用する例外的な存在(の仮定)によって、全てを疑いの目で見なければならないコストを社会に、主に女性に負担させる。後述するがこれは私のような男性にとっても由々しき問題となっている。

デパートなどのコスメ売り場(いわゆる「デパコス」売り場)は、女性専用とまではされていないものの、実質的にはそのような空間に近く、そこに(女性連れではない)男性が入り込むことは、それを観察する女性にも、そして悪気なくコスメを見たいだけの男性にも同様の緊張感を生じさせ、はっきり言って落ち着かない。

恐る恐る入ってみると、横向きに細長い鏡が設置されており、平均的な身長の女性が顔を確認しやすいように絶妙な角度で風景を切り取り、それが男性の身長を持つ私の肩の下あたりを奇妙に映し出す。そうした微妙なデザインからも「ここはお前の来る所ではない」と感じるのだ。

ただ、そうした心理的障壁を乗り越えて、ちゃんとコスメを見に来た客であることを相手に示せば、問題なく、むしろBAさん(ビューティーアドバイザー)はジェンダーに関わらず親切に対応してくれる。

なので、心理的にも障壁があることは否定しないが、それを超えた所で排除されたり断られたという経験は、今のところ無い。なのでメイクに興味がある男性諸氏は諦めずデパコスを活用してほしい(自分もしたい)。

とはいえ、現状の男女差を見るとこのままで良いのかという疑問も湧く。いわゆる「アファーマティブ・アクション」として、例えばBAの何割かを男性とする、ような動きがもしあったとすれば、男性がより入りやすくすることは可能だろう。私の立場からはそれは好ましい変化に思える。しかし、そうしたアクションによって、男性よりもメイクに時間もお金もかけてきた女性がBAの職からあぶれる状況が生じるのであれば、それを(将来的な平等のために、過去の不平等の責任を取る形で)甘んじて受け入れるのがコスメ業界の女性の責任、になるのだろうか?なかなか難しい。


■「男子化粧室」という矛盾

メイクをするようになって、この「男子化粧室」という言葉の矛盾を感じない日はない。

男子トイレは何らかの歴史的な理由により女子と同じく「化粧室」と呼ばれている。私は(当たり前だが)女子化粧室に入ったことは人生で一度たりとも無いので、妻から聞いた伝説のような話なのだが、どうやら女子化粧室ではすべてが個室になっており、鏡の前に間仕切りがあることでプライベートの空間が確保され、実際に「化粧」を直すことが可能だという。

翻って、男子化粧室とは完全に名ばかりで、小便器は何の間仕切りも無く配置され(あれはもはや人権侵害ではないか?)、鏡の前にもパーソナルスペースなどあったものではない。

化粧をしていると、化粧直しをしたい、と感じる機会はかなり多い。ヨレてしまったファンデーションなどを少しパフで押さえる事ができるだけでだいぶマシになるであろうものが、男性はなかなかそれが安心してできる場所が存在しないのである。

それくらいトイレの鏡の前でささっとやれば良い、と思われるかもしれないが、それがまた新たな問題を呼び起こす。

考えてみてほしい。男子化粧室で化粧直しをしている、服装や髪型もレディースの人間がいたら、トイレをしに来た男性はどう思い、どう反応するか?

私は当然、自分が襲われる心配なんて微塵もしていない。

私が心配しているのは、そこに入ってきた男性が「女子トイレに入ってしまった」すなわち、「穢れた自分が禁域に踏み入れてしまった」と直感し、慌てふためいて引き返し、目を白黒させながらトイレのジェンダー表記と眼の前の現実のどちらをどう解釈すべきか、混乱させてしまうことだ。

この話は、残念ながら全くの誇張がない現実で、化粧直しなどするまでもなく、後ろ姿で私のことを女性と勘違いされた男性がトイレから引き返す様子は幾度となく見た。そのため、私は男子トイレに入るのにもできるだけ人のいない場所やタイミングを狙ったり、トイレに行く可能性が高い場合はそもそもファッションをメンズ寄りにしたり、逆にレディース的なファッションをしている時に男子化粧室が混んでいる場合は無用な混乱を起こさないように行くのを諦める事もあった。

このように、女性向け空間から男性を排除するべきという規範は女性だけでなく男性も当然ながら深く意識しており、そのため、実は「男性向け空間に女性的な見た目の人間が入る」ことに対しても混乱を巻き起こすのだ。

私自身はシス男性のアイデンティティを持っているので入口は男性で問題ないのだが、男性向けトイレも中身を女性向けトイレと同様にパーソナルスペースが確保可能な構造に統一してほしい。既存のトイレ設計を温存する前提で話をするから「男性向けの(パーソナルスペースが確保されない)トイレを使いたくない/使え」みたいな話になるが、せめてこれから建てるビルだけでも良いので、男性向けトイレがもっと男性の人権に配慮する方向にも考えていただけないだろうか。


■レディースファッションの多様性

「メンズ向けのファッションはシンプルで似たようなものが多い」というのはわりと一般的なイメージだろう。

お気に入りのブランド「UNITED TOKYO」のラインナップを見てもそれは一目瞭然で、男性向けのコーディネートはパンツとシャツの形がほぼ画一的で同じ型にはめられたビジネスマン的な印象に収斂しているのに対して、

コーディネート一覧|UNITED TOKYO ONLINE STORE

レディース向けのコーディネートはスカート・パンツ含めて多様性があり、シルエットから様々な個性を演出することができている。

コーディネート一覧|UNITED TOKYO ONLINE STORE

自分もかねてよりメンズファッションに興味が持てず、一方でレディースファッションには興味を惹かれながらもお店に入れない、という状況だった。ここ数年でメイクをするようになってようやく、レディース向けの店舗も見るようになり、人生で初めてファッションに興味を持てるようになった。

レディース向けのお店に入るのもかなり勇気がいるのだが(店員に話しかけられたりするし)、ちゃんと「服を買いに来た客」だと認識されれば問題なく試着もさせてくれる。

ただ、試着をする前には相当悩み抜いたうえでお願いすることが多い。自分は男性の中では華奢であっても、女性とはやはり体格が違っていて、レディースの服を着ると「私、肩幅デカいです」という違和感が出てしまう。最悪の場合は小さくて着られず、無理やり着ようとすると服を壊してしまうかもしれないと思って諦めたりもした。

また、「女性は試着したものを7割程度買わずに返却する」という情報もあり、実際自分もそれくらい気軽にできれば……と思うのだが、やはり自分が「男性」であることの「穢れ」に対して、責任を感じてしまう面もある。

男性は(とくに「おっさん」と呼ばれる年齢になったと自覚せざるをえない男性は)、社会から穢れたものとして扱われる事を自覚しており、試着ひとつにしても「男が一度着たものを、他の女性は袖を通したくないだろうなぁ」などと考えてしまう。

それ自体はある程度仕方ないし、店員さんからも(内心はどうあれ)それで怪訝な顔をされたりしたことは今のところ無いため、レディース服を着たい男性は諦めずに試着を……しても良いが、そもそも、メンズファッションにもそれくらいの多様性があってほしいのが正直なところだ。


ジェンダーイシューに立ち入る前に

いよいよジェンダーイシュー(男女間の不平等問題)に関する論点の整理に向かうが、いろんな反応が予想されるため、あらかじめ共有した出発点をもう一度記す。

「お互いの苦しみの存在を否定しない事」

私が男性の問題を提起し、男性の苦しみを代弁したところで、それによって女性の苦しみは無くならないし、相対化して矮小化すべきでもない。

その「どちらの苦しみが大きいか」といった話も、私はするつもりがない。もちろんある個人が「私の苦しみはあなたとは比べ物にならない」と感じる事は当然あるし、その主張もまったく否定しない。しかし、それによって私の小さな苦しみの「存在」は否定されない

社会課題の優先度をつけ予算をつける段階で、そのような比較は酌量の余地を生み出すだろうが、それを僅かでも脅かすまいと苦しみの「存在を否定」されることは、それこそが人格否定へと繋がってしまう。

むしろ、他方の課題解決を促すことで、自らの課題も同時に解決に向かう可能性もある。女性が社会進出することで、「男性社会」が揺らいで困る既得権益者も一部にいるかもしれないが、多くの男性にとっては協力者が増え、理解者が増えることで助かる面が大きいだろう。

男性が美容に進出することで、「女性社会」が揺らいで困る女性も一部にいるかもしれないが、女性の空間とその力学を理解する男性が増えることは、全体の利益にならないだろうか?


■単純化せずトレードオフを見る

多くの物事にはトレードオフがある、というのが私の基本的な考えだ。

物事を単純化して理解したい人間の本能はどうしても「加害者か」「被害者か」という立場争いに向かいがちだが、男性も女性もそんな一枚岩ではなく、一人の人間においても「被害者であり加害者である」事もあるし「特権があり、それによって辛い」こともある

ネットで良く見る説明としては、「男性特権」「家父長制」があるからだ、男が競争社会を形成するからだ、というものや、男性は遺伝子的に女性よりも上も下も多様に分散しがちな特性を持っているのだ、という説明がある。そしてこれらを根拠にして、男性には原罪があるだとか、女性は楽をしているという、不毛な男女対立の議論が展開されるのは、お決まりの展開だ。
だが、果たして、本当はどういうことなのだろうか。

第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか
– 晶文社スクラップブック

藤田直哉氏による「男性学」連載はついこの間始まったばかりだが、早速そうした単純化された空間を切り分けていこうという話がされている。私としては、既存の「弱者男性」的な主張とは別の切り口で、男性の権利として、この「魅力」の問題を扱いたい。


「魅力」と「権力」を巡る競争

私は「魅力」のある人間になりたい。人に好かれる、まで行かなくとも少なからず憎まれない、そして時折「あの人雰囲気あるなぁ」くらいの注目を集められるようになれたら嬉しい。

「権力」(あるいは「お金や名声」でも良いが)、それは必ずしも唯一の求めるべきステータスではない。

「権力」と「魅力」※、これらはその効果範囲や性質が大きく違うにせよ、多くの人間が追い求めて競争させられているステータスの一つだ。

※話をわかりやすくするために「魅力」という言葉を用いているが、語弊も多いので補足しておく。
●「魅力」というと性的な魅力(体格・スタイルが良い等)もあるが、ここでは同性も含めた全員に効果のある「身だしなみ」「印象の良さ」に関係するステータスを指す。
●本来はステータスのように1つの数値で表されるものではなく、人間関係の中でそれぞれが抱いている印象という膨大な情報をまとめている。

今の社会では、

権力ステータスは男性の方が上がりやすく、初対面での威力は無に等しいが、効果範囲の中では絶大な威力を発揮する。低いうちはあまり意味がないが、上げ続けるほどに際限なく効果も高まっていく。持っているだけでは自己効力感がなく、振るわないと意味がない。効果範囲の会社やコミュニティが続く限りはそれを温存しようとする力学が働く。

魅力ステータスは女性の方が上がりやすく、初対面での威力が抜群に高く、効果範囲は広いが必ずしも全員に効くわけではない。ステータスが低いうちから一定の効果を発揮するが、上げ続けることは難しい。持っているだけで自己効力感がある。時間経過によるステータスの減退があり、流行の変化によってそれを刷新しようとする力学が働く。

それぞれ、強みと弱みがあって、どちらかだけを持っていれば良い、というものではない。自分としては、権力ステータスと魅力ステータスはバランス良く上げておきたいという気持ちがある。

完全に余談だが、ゲーム「ファイアーエムブレム風花雪月」には「魅力」がパラメータとして存在し、率いている騎士団の計略の命中・回避・威力がこれで決まる。リシテアは魅力より魔力が強いので、自分一人で魔法で切り抜ける戦い方になる。

しかしながら、「権力」の問題は社会的に大きく取り上げられ、ジェンダー平等化の指標として表立って利用される一方で、「魅力」は(それに関する競争や経済が明らかに存在するにも関わらず)まるでジェンダー平等の問題としては挙げられず、なぜか女性だけが参加する前提になっている

権力がお金というフラットな価値に紐づけられるのに対して、魅力はルッキズムと言われてその価値を測るべきではないものとされ、不可視化されているのだろう。この非対称性が男性にとっても、そして女性にとっても相互理解を阻む要因となっているのではないだろうか。

ステータスには、その「リターン」の前にそれを得るための「リスク」が存在する。よって、「魅力」に関する社会・経済に男性を参加させなければ、(とくに恋愛市場の非対称性の議論において見られるように)男性からは魅力の「リターン」が独占されているという不平等に見え、女性からは魅力を得るために支払っている「リスクやコスト」を一方的に負担しているという不平等に見える。一見これは、競争のリスクもリターンも女性自身が請け負うので釣り合っているようにも見えるのだが、そもそも競争への参加機会が不平等なのだ。


■男性社会と女性社会

権力を巡る競争の「男性社会」と、魅力を巡る競争の「女性社会」がある。

◯◯社会というと、それを支配している、有利である、というイメージで用いられる事が多いが、実際にはそれはリターンの方だけを見ていて、リスクの方を見ていない。

そうした期待と競争に強制的に晒されることで、リターンを大きく得る勝者もいれば、必ず(勝者よりも圧倒的に多くの)敗者を生み出し、彼ら・彼女らをリスクの大きい行為へと駆り立てる抑圧と差別を正当化してしまう

だから、「男性社会」で男性が権力のリターンだけを得ているわけではないし、「女性社会」で女性が魅力のリターンだけを得ているわけではない。

本稿で見てきた通り、美容を巡る「女性社会」の競争は苛烈だ。確かに美容に関する情報は女性の間で活発に流通し、ヘアアレンジもスキンケアも若い頃から取り組む機会があり、コスメもファッションも女性向けに多様な商品が開発され、化粧室が整備されたりなど女性が「有利」な空間は存在する。それを利用して異性に対して優位に立てる人もいるだろう。

しかし、だからといって女性全体が無条件で美しくなれるわけはない。そこには個々人の顔・スタイルに適した美しさの探求があり、コンプレックスを刺激されたり異性からの過剰な要求を流布する言説にストレスを与えられ、金銭や身体をリスクに晒されるような状況が存在する。

ビヨンセの楽曲「Pretty Hurts」は、2014年の時点で、「美しさを求めては傷つく」女性の心を代弁していた。

「男性社会」も同様で、リーダーになる上で男性が「有利」な社会は存在する。それを不当に利用して異性に被害を与え封殺しようとする許しがたい人間も存在する。

しかし、だからといって男性全体が無条件でその恩恵を受けられるわけではない。リーダーには相応の重圧とストレスがかかるし、そうした立場に至る以前に競争と期待に押しつぶされて命のリスクに晒される状況も存在する。


■リターンを求めれば、リスクも見える

男性社会、女性社会、どちらもリスクとリターンがある。

翻って、今の社会において、「女性の社会進出」が意味する所は何か?というと、「女性の、男性社会(権力競争)への進出」である。

男性から見て、これは「リターンを奪われる」だけに見えるかもしれない。

では女性から見るとどうか?権力という新たなリターンを得るために、当然ながらそこに存在するリスクやコストを受け入れる必要が出てくる。

するとどうなるのか?女性は社会問題としては不可視化されている「美容に関するリスクやコスト」を受け入れた状態のままで、新たなリスクをも抱え込む羽目になっているではないか。

ここがまさにジェンダー平等に関する議論の不均衡な点で、魅力に関するリスクもリターンも「女性だけが請け負う」前提が動かされていない。もちろん、女性がそこから降りよう(リターンも得ない代わりに、リスクも拒否する)という動きは存在するが、結局は全員が魅力を巡る競争から降りることはできない。なぜなら、魅力は実際に価値ある大切なステータスだからだ。

私の提案はここに対称性を取り戻そうとすると自然に導かれる。

「男性の、女性社会(魅力競争)への進出」である。

最近は「メンズメイク検定」なるものもあるらしい(自分は受けてない)

このまま、男性が権力のみの社会で競争し、女性が権力と魅力の2つの社会で競争する、という流れが進むのであれば、リスクとリターンのバランスは一見して取れてなくもないのだが、女性は両方でリスクとコストを2倍支払うことで男性の2倍のリターンを得ることになり、より過酷な世界に投じられる一方で、おそらく、より鮮烈な勝者も生み出すことだろう。

この非対称性が明らかに不毛な議論の数々を生み出している。外見的魅力を兼ね備えた女性実業家に対して(男性より多くの社会で競争した上で得た立場であっても)ナーフしろと言わんばかりの差別が行われたり、女性は魅力に対してコストを支払っているのだから男性が奢るべきだ、といった議論である。

もし、男性が自らの魅力を磨く、ということをタブーから外し、その競争に参加してみるならば、私が感じたように、そこに矛盾を指摘することはいとも容易く思えるのである。女性が魅力を持っているのは「そうあるもの」ではなく何かを投じた結果、とわかればそこに不平を漏らすよりは自らの魅力を磨くべきだろう。デートで相手に与えるのは金銭的な安心感でも良いかもしれないし、自分の外見を相手以上に魅力的にしようとしたって良いのだ。

このように、男性が女性社会に参加してその力学を知ることで、何が見えていなかったかを明白に体験するはずだ。それは今日、女性が男性社会に参加する中で、男性が何をしていたのかを多くの面で知り始めている(だろう)事にも対応する。それは相互理解の出発点になるはずだ。


■参加したい競争と、参加させられる競争が一致しない

一度そのように、男性と女性で「2つの社会がある」と考えることができれば、「自分はどちらの社会で競争したいのか」という議題が生まれる。

現状は、「自分の属性(男性・女性)によって同意なく一方の競争に参加させられるために、苦しむ人」がいる。男性だからといって権力闘争に巻き込まれ、女性だからといって魅力闘争に巻き込まれる。短い言葉で言うと、「社会不適合者」を生み出している。しかしそれは、その人が責任を負うべきではなく、社会の方が変わるべき、というのがジェンダー平等の目指す所だろう。

現代社会は「この競争に参加しないと女性ではない・男性ではない」などの不均衡を生み出しているが、そもそも自分がその競争に参加したいなどと、自ら選択できる機会はあっただろうか?

たまたまそこでリスク少なく勝てる手札(整形のいらない顔面とか、不眠不休で働ける体力とか)を持っている者は良いかもしれないが、そうではない大多数の者が望まない競争に参加させられ、にも関わらずその競争に参加していない異性から「お前は恵まれている、こっちは不利だ」などと言われるのである。

繰り返すが、男女で対立する必要性も合理性もそこには存在しない。他方から見えているリターンの裏に必ずリスクがあり、敗者としてリスクばかりを背負っていたり、あるいは勝者であったとしても、請け負うコストがそれに見合うとはとても思えないほど苦しんでいる者たちがいる。彼ら、彼女らは皆、「こんなリスク・コストを当然と思うな」と表明する権利がある。

だから私は男性のためとか女性のためではなく、社会不適合者のために社会が変わってほしい願う。そうした社会を実現するための「敵」がいるとしたら、それは「異性」ではない。「相手の請け負っているリスク・コストを当然と思って無視する態度」のことだ。


ジェンダーイシューに関する自分の整理はここまでとなる。

女性の男性社会進出を進めると同時に、男性の女性社会進出を進めることで、相互理解を深め、願わくばそれが「相手の請け負うリスク・コストを無視しない人と社会」に繋がってほしい。誰もが美容に毎日1時間を費やすならば、夫婦揃って8時間労働+残業などやってられないだろうし(子育てを考えれば尚更だ)、そんなに働かされながら「身だしなみ」を求めることは非常識だというように、お互いのハードルを下げる力となれば理想的だ。

……果たして、そう上手くいくだろうか?

終章として、私がこれまで前提として掲げていた「ジェンダー平等」および「競争参加の自由」を無条件に良しとすることを疑い、自分は実のところ何の答えも持っていないのだ、という現実を詳らかにした上で終わりたい。


終章:魅力主義は正義か?

「自由」と「平等」は近代社会が形作られる上で誰からも批判されない理想として掲げられてきたが、実際にはそれほど望ましいモノではなかったかもしれない。

私達人間は自分の能力をたいてい「何かしら人に勝る部分がある」と楽観的に捉えているからこそ「自由」と「平等」が望ましく、「誰にも邪魔されなければ自分は勝てる」のだとどこかで信じている。しかし、実際に本当の自由が訪れると多くの面で自らは敗者となり、不平等の拡大によってその屈辱的な側面のほうがよほど大きいと感じられるようになっていく。

私が本稿のような主張をしたのもそうした根拠なきナルシシズムによるもので、つまり自分は体力では勝てないけど魅力では勝てるんじゃないか、という無邪気な思い込みに原動力があったことは否めない。本当にこれで男性の魅力競争が正当化されれば、より魅力的な若い世代にボロ負けして言い訳を探し始めるだろう事は想像に難くない。

マイケル・サンデルによる「実力も運のうち/能力主義は正義か?」において、そのことは次のように言明される。

「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。」

実力も運のうち 能力主義は正義か? - マイケル・サンデル

マイケル・サンデルは本書の中で、「能力」というステータスも人は生まれながらに不平等であり、それは「頭が良い・悪い」といった話ではなく、「生まれ持った能力がたまたま今の社会で求められているかどうか」といった偶然性に依拠している、と指摘する。

例えば、現代社会では「めっちゃ早く火を起こせる」みたいな才能はほとんど意味を持たないが、代わりに「SNSでめっちゃ早く炎上を起こせる」という迷惑な才能には多額の金銭が支払われることになっている。

UnsplashのMarko Horvatが撮影した写真

さらに、こうした評価が形式上は「自由な選択」と「平等な機会」の下に行われているからこそ、「こうやって金を稼ごうとしないのは、お前がそう選択したから」という正当化を行う。そして、エッセンシャルワーカーなど「必要だが大きく報われない仕事」を担う普通の人間が不当な見下しを受けてしまうのだ。

これは能力に関する非常に下らない競争の一例だが、魅力に関しても、能力と同等かそれ以上に同じ指摘は可能だろう。

見た目の魅力が生まれ持って違うこと、そして、その価値が社会から魅力的とされるかどうかも自分で決めようが無いことは、誰もが承知している。そのために外見の魅力主義、すなわち「ルッキズム」は、能力主義以上に最初から疑いの目を向けられている。

外見的な魅力という「もともと不平等なもの」が、その上の努力によって(見かけ上)「平等に競争して得たもの」との性質を帯びてゆくことで、能力主義と同様、「お前が醜いのは努力が足りないからだ」という不当な見下しを生み出すことは想像に容易く、女性の間では既にそうなりつつある(もうなっている?)可能性がある。

能力(権力)であれ、魅力であれ、それがどの程度努力によるものか、どの程度才能や環境がマッチした偶然によるものか、正確に切り分けることなど不可能であるにも関わらず、自由と平等はそれを覆い隠して「自己責任」へと帰着させる。こうしたリベラリズムだけでは、救える人間よりも苦しめられる人間の方が多いかもしれない。


■運命を選択できる事と与えられる事のどちらが幸福なのか

よって、魅力の競争を自由化したところで、その時代が求める見た目の基準に合致しないがために、努力不足だと嘲られる存在が生まれ、その被害者も加害者も男女ともに増やす結果になりかねない。

また、私は「参加できる競争の選択」を望んだが、実際のところ「私は魅力の競争からは降ります」と言った所で、もしそれに「参加できる」という前提が十分に共有された社会であれば、それ自体が「逃げ」だと揶揄されない保証は無い。よって、「参加できる」という事が実質的に「強制参加」と同じ意味になってしまうことは避けられないように思える。現に、今の女性が権力と魅力のどちらの競争にも参加できる、といった「自由な選択肢の増加」というタテマエの上で、実質的にどちらにも強制参加させられている事がその裏付けとなる。

私はそこで相互理解が進んで「お互いのハードルを下げる」事が理想だと述べたが、人間の飽くなき競争心と、存在価値への死にものぐるいの探究心を信じるならば、むしろお互いのハードルを上げ続け、より効率的な美容のメソッドやコンプレックスの刺激方法が編み出され、際限なく続く地獄への門を開くだけのように思われる。

だとすると。

「ジェンダー平等」そのものがが幸福につながるのかどうかは、疑いを持って見なければならない。マイケル・サンデルは同書において、次のようにも述べている。

「自分が苦役に耐えながら仕えている地主は、自分より有能で才覚があるおかげでその地位を手に入れたなどと思い込んで悩む必要もない。」

実力も運のうち 能力主義は正義か? - マイケル・サンデル

これはメリトクラシー(能力主義)とアリストクラシー(貴族社会)を比較した上での文書だが、貴族制のように最初から身分と役割が決まっていたほうが、奴隷は「自分がその身分にいることを、自分のせいにしないで済む」し、貴族のほうも「自分がその身分にあることを、自らの正当な評価であると驕り高ぶることが無くなる」分だけマシなのではないか、という主張だ。

翻って、男女の立場も最初から「男が権力を手にして」「女が魅力を提供する」という役割が決まっていれば、権力を手にできない女性はそれを社会のせいにして、魅力を手にできない男性もそれを社会のせいにして、「あいつらはいいよな」といがみ合いながらも、お互いを求め合う関係のほうがマシなのかもしれない。

あるいは、今の美容業界が必死で取り繕っているように、魅力とは競争などではなく、「その人本来の美しさを解き放つ」ことで誰にでも獲得できる、あるいはそもそも内在しており、コスメはそれを表現する手段なのだということを真剣に捉え、その空間でメイクをしないという選択がどう肯定されうるのか、考えてみるべきかもしれない(それが可能ならば)。


あとがき

という絶望的な展望を書いた所で、無責任にも筆を置きたい。もとより社会学者でも何でもなく、ジェンダーに関して学んだなどとは口が裂けても言えない立場なので、私ごときが何らかの「答え」を提供できるわけではない。

ただ、なぜだか少し普通から外れた生き方をしてしまっている自分がいた。きっとこれは珍しい視点だろうから、この位置からは社会がどう見えるか、という事を記しておくことは「自分だから出来ること」に思えた。

抽象的なまとめになるが、私が今回の記事で伝えたかったことは「越境」することで見える世界があるという事だ。それは、もう一つのアカウントで魅力を伝えている「音楽とゲーム」にも繋がる、私の人生のテーマであるように感じている。

この境目を超えたらどうなるのかを知り、そこで得られた驚きや感動を持ち帰り、2つの世界を結びつけること。それぞれの分野で一番になるように競争するよりも、無数にある分野の境目を横断することで「この人がいないと知ることがなかった世界」を繋ぐこと。それこそが、何らかのステータス競争で疲弊する社会に対して、私が実践できる対抗策であって、そうした役割はステータスの高い人が一人いれば良いわけではなく、あらゆる分野の間で、あらゆる人間の隣にそれぞれに必要だからこそ、より多くの人が存在価値を感じやすいのではないかと思う。


著者:https://x.com/geekdrums

記事サムネイル:UnsplashEdz Nortonが撮影した写真


いいなと思ったら応援しよう!